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The Second Choice of MIRA  作者: ゆぴろ ✎*


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3/15

第3話 帰る場所

転倒をきっかけに、MIRAから施設への移行を勧められた女性。


安全を考えれば施設。

それでも彼女には、四十年近く暮らしてきた家を離れたくない理由がある。


シンは、住宅改修、見守り、再発の可能性、家族への負担を一つずつ確かめていく。


判断材料が増えれば、どちらを選ぶべきかは見えてくるはずだった。


その夜、シンはもう一度、ユイが最後に残した文章を開く。

「転ぶのが怖くないわけじゃないんです」


彼女はそう言って、膝の上で両手を重ねた。


七十歳を少し過ぎたくらいだろうか。薄い灰色のカーディガンに、よく手入れされた革の手提げ。話し方はゆっくりしているが、言葉を探して迷うことはほとんどない。机の端末には、MIRAの評価がすでに表示されていた。生活支援付きの居住施設への移行が第一推薦。自宅での生活継続は、その下に「条件付き代替案」とある。


三週間前、彼女は自宅の台所で転倒し、数日入院した。骨は折れなかった。退院して今は自宅に戻っているが、このまま住み続けるか、施設へ移るかを決めなければならない。


「怖いですよ。起き上がれなかったときのことは、今でも思い出します。でも、だから施設に行きます、って簡単には言えなくて」


「迷っている理由を、聞かせてもらえますか」


ミオが尋ねると、彼女は少し笑った。


「理由ならいっぱいあるんです。どっちにも」


彼女は自分から話した。家には四十年近く住んでいる。向かいの家とは、夫が生きていた頃からの付き合いがある。朝は六時に起きて、自分で雨戸を開け、庭の鉢に水をやってから朝ごはんを作る。誰かに時間を決められる暮らしは、たぶん自分には向いていない。できることは、できるうちは自分でやりたい。


それから、同じ調子で反対側の理由も並べた。施設なら、また倒れてもすぐ見つけてもらえる。通院の付き添いも、薬の管理もしてもらえる。息子に余計な心配をかけずに済む。これから体が弱っていったとき、慌てて移るより、今のうちに慣れておいた方がいいのかもしれない。


「どっちを選んでも、それなりに後悔すると思うんです。だから、どっちの後悔の方がましか、考えに来たんです」


ミオは頷いた。この人は、自分が何を大事にしているのかをもう知っている。言えずにいることを拾う必要はなかった。


「一番なくしたくないものは、何ですか」


「朝、自分で雨戸を開けることかしら」


即答だった。


「一番怖いのは」


「夜中に倒れて、朝まで誰にも見つけてもらえないこと」


これも即答だった。彼女は自分の答えに、少し困ったように眉を下げた。


「ね。両方ちゃんと分かってるのに、決められないんです」


シンは画面を見ていた。本人の価値ははっきりしている。MIRAもそれを大きく外しているわけではない。決めきれないのは、判断に必要な事実がまだ揃っていないからだ、とシンは考えた。


「いくつか確認させてください。分からないまま比べている部分があるなら、先にそこを埋めます」


シンが最初に確かめたのは、家そのものだった。台所と廊下の段差、浴室の手すり、寝室から玄関までの動線。彼女が持参した間取りの写真と、自治体の住宅改修の条件を照らし合わせると、転倒した台所の段差を含め、主な箇所は二週間ほどで改修できることが分かった。補助の対象にもなる。


次に見守りサービスの空き状況を照会した。日中の定期訪問と、緊急時に押せる通報端末の貸与が、来月から利用できる。向かいの家の住人は、彼女が入院していたあいだ、毎朝雨戸が開いていないのを見て様子を気にかけていたという。退院してからは、朝、雨戸が開いたのを見て手を振ってくれる。


「それなら」


シンは入力欄に確認した事項を並べながら言った。


「自宅の安全性は、最初の評価より高く見積もれます」


彼女は少し意外そうな顔をした。ミオも、画面の項目を目で追っていた。


ただ、確認はそこで終わらなかった。


退院時に受け取った書類には、転倒の原因として、立ち上がるときのふらつきが挙げられていた。薬の調整で様子を見るが、同じことが起きる可能性は否定できない、と医師の所見にある。偶然つまずいたのではなかった。


見守りサービスの緊急対応も、日中と夜間では条件が違った。夜間は駆けつけまでに二十分以上かかる場合がある、と契約条件に書かれている。施設なら、夜勤の職員が同じ建物にいる。


息子の話になったとき、彼女は「月に二回は来るって言ってくれてるので」と言った。シンが、入院中はどのくらい来ていたのかを尋ねると、彼女は指を折って数えた。二時間かけて、四回。そのたびに仕事を休んでいたらしい。


「……あの子、無理してたのかしら」


彼女はそう言って、しばらく黙った。


シンは追加の情報を整理し、彼女に内容を確認してもらってから、MIRAへ送った。


再評価の結果は、表面上はほとんど変わらなかった。施設への移行が第一推薦。自宅での生活継続は条件付き代替案。変わったのは、その下の説明だった。自宅の項目には、改修と見守りの導入を前提とした条件が細かく書き加えられ、施設の項目には、再発の可能性と夜間対応の差が根拠として追記されていた。どちらの説明も、最初より長く、具体的になっていた。


両方の理由が、前より強くなっていた。


「そうですよね」


画面を読み終えた彼女は、むしろ納得したように頷いた。


「どっちにも、ちゃんと理由がありますよね」


シンは画面から目を離さなかった。自宅の条件と、施設の根拠を、もう一度上から見比べる。まだ確かめていないことはあるはずだった。


「もう一つ確認できます。施設側で、どこまで今の生活習慣を維持できるか。起床時間や、外出の条件を――」


「シン」


ミオが小さく呼んだ。相談者に聞こえないくらいの声だった。


「まだ何か足りないと思ってる?」


「判断材料が増えれば、差は出る」


「出なかったら?」


シンはすぐには答えなかった。


その間に、向かいで彼女が首を振った。


「もう、いいんです。十分調べてもらいました」


彼女は画面の二つの項目を、指先で順に触れた。


「安全なのは、施設なんでしょうね。それは分かります。でも、今の私は、まだ家で暮らしたいです」


それから、条件の欄に目を落とした。


「改修もします。見守りも入れます。息子にも、無理しなくていいって、ちゃんと言います。それで、だめになったら、そのときは施設のことをもう一度考えます」


自宅での生活継続を選んだうえで、三か月ごとの再評価と、状態が変わったときの施設移行の再検討が手続きに組み込まれた。彼女は一つずつ内容を確かめ、了承した。


「たぶん、そのうち後悔する日も来ると思います」


帰り支度をしながら、彼女は言った。


「でも、施設に行っても、きっと雨戸のことを思い出して後悔するから。同じなら、今はこっち」


彼女は手提げを持ち、二人に深く頭を下げてから、ゆっくりした足取りで相談室を出ていった。




扉が閉まったあとも、シンは画面の再評価結果を閉じなかった。


「施設の方が安全なのは変わらない」


「うん」


ミオは手元の記録を整理しながら答えた。


「でも、自宅を選ぶ理由も増えた」


「うん」


「情報を増やしたのに」


そこで言葉が止まった。何を言おうとしていたのか、シン自身にもはっきりしなかった。情報を増やしたのに、どちらか片方がはっきりしたわけではなかった。むしろ両方の根拠が厚くなった。それを何と呼べばいいのかが、分からなかった。


ミオは少しだけシンを見て、それから手元に視線を戻した。


「増えたからじゃない?」


それ以上は何も言わなかった。シンも訊き返さなかった。




その夜、シンはまたユイの記録を開いた。


最終監査の開始参照は、昨日と同じ表示のままだった。詳細を表示できません。何度開き直しても、同じ一行が返ってくるだけだった。


シンは監査サマリーを閉じ、記録の本体に戻った。添付資料の欄に、一件のテキストがある。ユイが最後に残した文章として、公式には扱われているものだ。


読んだことはあった。確定の直後に一度、それから何度か。そのたびに、内容を確かめるより先に画面を閉じていた気がする。


シンは、今夜はそれを最後まで読んだ。


たいていのことは、やってみないと分からない。分からないまま止まってるくらいなら、面白そうな方へ行け。俺はたぶん、最後までそうする。


まあ、外れたらすぐ捨てるけどな。


短い文章だった。


シンは、まず間違いを探した。言葉遣いはユイのものだった。飛躍を恐れないところも、外れたら捨てると笑うところも、深刻な話の最後に軽口を置く癖も、全部ユイだった。結論の出し方も、考え方も、どこにも外れたところがない。ユイを知っている人間なら、誰が読んでもユイの言葉だと言うだろう。


それなのに、どこかが合わなかった。


ユイがこれを書いているところを思い浮かべようとすると、うまくいかない。机の上のカップやペンを動かしながら、途中で何度も言い直し、周りに「飛びすぎだ」と言われてから理由を並べ始める、あのユイが、この数行を書いている姿が浮かばない。何が違うのかは説明できなかった。違うと言えるだけの根拠も、どこにもなかった。


ユイなら、言いそうだった。


だからこそ、シンはもう一度読んだ。


「……こんなふうに書くか?」


(第3話 了)

ユイが最後に残した文章。


書かれていることは、どこにもおかしくない。


考え方も。

言葉の選び方も。

最後に軽口を置くところも。


知っているユイそのものだった。


だからこそ、シンは引っかかった。


ユイなら、言いそうだ。


けれど――

本当に、こんなふうに書くだろうか。



『MIRA』

進学、就職、居住地など、人生の大きな選択を支援する推薦システム。

「第一推薦」「強く非推奨」「許容」「条件付き代替案」などの評価を示す。

新しい情報が加わることで、再評価や条件の追加が行われる場合がある。


『AXIA(人生選択調整部門)』

MIRAの推薦と本人の希望が大きく食い違った際の相談窓口。

本人から事情や価値観を聞き取り、必要な情報をMIRAへ追加する。

AXIA自体が推薦を書き換えることはできない。


『再評価』

新しい事情や価値情報をMIRAへ追加し、選択肢をあらためて評価する仕組み。

情報が増えても、一方の選択肢だけが強くなるとは限らない。

複数の選択肢それぞれの理由や条件が、より具体的になる場合もある。


『推薦外の選択』

MIRAの第一推薦以外を選ぶことも可能。

必要に応じて支援条件や再評価の時期などが設定される。


『最終監査』

案件の確定に伴い、記録の保全や事後確認を行う処理。

死亡確認後に限らず、生存の見込みが極端に低い場合などには、それ以前に開始されることもある。

ユイの最終監査は、死亡確認より三十四分前に始まっている。


『開始参照』

最終監査が何を根拠に開始されたのかを後から辿るための参照情報。

通常は最終監査の開始時に紐づく。

ユイの記録では「詳細を表示できません」となっており、中身を確認できない。


『シンとミオ』

ともにAXIAで相談対応を担当。

シンは以前、調査部門に所属。

ミオとは当時から面識があった。


『ユイ』

シンが調査部門にいた頃の相棒。

公式記録上の死因は「自殺」。

最後に残した文章として扱われている短いテキストが存在する。

内容や言葉遣いはユイらしいが、シンはその書かれ方に違和感を覚えている。


『ヴェル』

記録や参照履歴を扱う技術部門の職員。

シンが調査部門にいた頃から面識があり、システム仕様について相談できる相手。

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