第2話 認識されなかった時間
ユイの死亡確認は14時32分。
最終監査が始まったのは、その三十四分前だった。
不可解に見えた記録にも、制度上あり得る説明は存在している。
けれど、その説明がユイにも当てはまるのかは分からない。
一方、AXIAには「今の部署を出たい」という男性がやってくる。
異動したい理由を辿っていくシンとミオ。
そして業務を終えたシンは、ユイの記録を持って技術部門のヴェルを訪ねる。
検索結果は三件だった。
どれも職員向けの手引きで、開いていくと、同じ説明が少しずつ言葉を変えて繰り返されていた。最終監査は、案件の確定に伴う記録の保全と事後確認のための処理である。開始の時点は案件の性質によって異なり、死亡の確定後に限られない。そこまでは書いてある。何を満たせば始まるのか、その条件の一覧へ進もうとすると、画面には権限が不足していることを知らせる一行だけが表示された。
シンは椅子の背にもたれた。
死亡の確定後に限られない。それなら、13:58は規則から外れた数字ではないのかもしれない。最初に見たときほど、奇妙な記録ではないのかもしれない。ただ、どういう場合に「限られない」のかは、今の権限では読めなかった。
これ以上開いていても、今夜は何も出てこない。シンは端末を閉じた。
翌日の最初の相談者は、三十代前半の男性だった。
予約の五分前に来て、勧められる前に椅子に座り、端末の画面をこちらへ向けた。ネクタイは締めていないが、シャツの襟はきちんとしている。警戒しているというより、手続きを一つ片づけに来たような顔だった。
「社内の異動の件です。MIRAが今の部署に残れって言ってるんですけど、正直ちょっと納得いかなくて。止められるなら、一回ちゃんと聞いてみようと思って」
画面には、彼の現在の所属である営業企画部への残留が第一推薦として表示されていた。希望している事業開発部への異動は、その下に「許容」とある。禁じてはいない。ただ、勧めてもいない。
「違う仕事がしたいんです。今のところは、たぶん自分に合ってない」
「いつ頃からそう思っていますか」
シンが尋ねると、彼は少し考えた。
「半年くらい前から、ですかね」
「きっかけは」
「特に何か、ってわけじゃ……ないです。なんとなく」
シンは次へ進んだ。異動先で何をしたいのかを聞くと、新規事業の立ち上げに関わりたい、今より自分で動かせる範囲が広いと思う、という答えが返ってきた。言っていることに矛盾はない。ただ、どれも少し一般的だった。
「今の仕事の内容自体は、どうですか」
「嫌いじゃないです。数字を見て、施策を組んで。得意な方だと思います。去年の秋にやった販促の組み直しなんかは、数字もかなり動いたし」
そこで彼は、短く笑った。
「まあ、あれは課長の案件ってことになってますけど」
隣でミオが、手元のお茶に伸ばしかけた手を止めた。異動先の話をしているあいだ、彼の声はずっと平らだった。秋の販促の話になったときだけ、言葉が具体的になり、そして最後に少しだけ硬くなった。
「その秋の販促の話、もう少し聞いてもいいですか」
ミオの問いに、彼は一瞬、答えるかどうか迷うような間を置いた。
企画を組んだのは自分だった、と彼は言った。データを集め、施策を設計し、現場との調整も自分でやった。結果が出て、社内の報告会で発表されたとき、それは課長の主導した取り組みとして紹介され、彼の名前は補佐として資料の隅に載った。課長に悪気があったのかどうかは分からない。ただ、それ以来、大きな案件は別の人に回るようになった。
「言っても仕方ないんで、言ってないですけど。ここにいても、誰も見てないっていうか」
ミオは頷いたが、何も付け足さなかった。彼が言ったことを、彼の言葉のまま置いておくように。それから一度だけ、シンの方を見た。
シンは画面から目を上げた。
「一つ、条件を変えて聞きます。今の部署で、担当範囲と評価の基準がはっきりして、あなたがやった仕事があなたの実績として扱われるなら――それでも異動したいですか」
彼はすぐには答えなかった。
口を開きかけて、閉じる。視線が画面の「第一推薦」の文字に落ち、それから机の端へ逸れた。ミオもシンも、何も言わずに待った。
「……それなら、別にここを出たいわけじゃないのかもしれません」
自分で言ってから、彼は少し驚いたような顔をした。
「異動そのものより、自分の仕事が自分の実績として扱われることを重視している。そう入力していいですか」
「……はい。それで」
シンが文言を整え、内容を彼に見せてから送信した。再評価の結果は、前回ほど待たずに返ってきた。
第一推薦は、変わらなかった。営業企画部への残留が、同じ位置に表示されている。変わったのは、その下に条件が添えられたことだった。担当範囲と評価者の見直しを、上長との面談で申請すること。六か月後に再評価を行い、改善が見られなければ異動案をあらためて検討すること。事業開発部への異動は、「許容」のまま残っていた。
彼はしばらく画面を眺めてから、鼻から小さく息を抜いた。
「……なんか、MIRAに負けたみたいですね」
「勝ち負けじゃないですよ」
ミオが言った。軽い口調だったが、冗談として受け流してはいなかった。
「まあ、そうですね」
彼は端末を引き寄せ、条件の欄をもう一度読んだ。
「とりあえず半年、これでやってみます。だめだったら、また来ます」
すっきりした顔ではなかった。言いたくなかったことを言わされた人の顔に、少しだけ近かった。それでも立ち上がるとき、彼は来たときより丁寧に椅子を戻し、二人に軽く頭を下げて出ていった。
扉が閉まってから、ミオが大きく伸びをした。
「今日は変わらなかったね」
「変えるのが仕事じゃない」
「分かってる」
ミオはそれだけ言って、空いた紙コップを重ねた。シンは相談記録を開き、聞き取った内容と再評価の結果を順に埋めていった。
業務を終えると、シンは記録や参照履歴を扱う技術部門のフロアへ向かった。調査部門にいた頃は、確認したいことがあるたびにここへ来ていた。定時を過ぎたフロアには、まだ半分ほどの席に人が残っていた。
ヴェルは窓際の席にいた。細身で、髪はいつもどおり整っている。画面から目を離さないまま、近づいてきたシンに気づいたらしく、手だけを止めた。
「珍しいな。AXIAに移ってからは初めてだ」
「聞きたいことがある。ユイの件だ」
ヴェルの手が、今度ははっきりと止まった。数秒おいて、隣の空いた椅子を指す。
「……座れ」
シンは自分の端末に監査サマリーを表示して、ヴェルの方へ向けた。
「死亡確認より前に、最終監査が始まるケースはあるか」
ヴェルは画面を見た。すぐには答えなかった。時刻の欄を読み、上下の項目を読み、もう一度時刻の欄に戻る。
「その記録だけでは判断できない」
そう言ってから、ヴェルは椅子ごとシンの方へ向き直った。
「確認できていることから言う。記録上、最終監査の開始は13:58、死亡確認は14:32。お前が確かめた範囲では、時刻の基準も修正履歴も問題ない。そこまではいいか」
「ああ」
「確認できていないのは、13:58に何が監査を開始させたかだ。このサマリーには書かれていない。――そのうえで、技術的にあり得る話をする」
ヴェルの説明は長かったが、途中を省かなかった。最終監査は、死亡が確定したあとにだけ動く処理ではない。本人の生存の見込みが極端に低いと判定された場合や、失われると困る記録を早い段階で確定させておく必要がある場合には、法的・医療的な死亡確認より前でも、最終監査そのものが先に開始されることがある。
「念のため言っておくが、未来を予知したという意味じゃない。その時点の状態を見て、死亡の可能性が極端に高いと判定しただけでも、この条件は成立する」
「なら、13:58に始まっていてもおかしくない」
「仕様上はあり得る」
ヴェルは一度言葉を切った。
「ただ、死亡確認の三十四分前というのは、少なくとも一般的ではない」
「どのくらい一般的じゃない」
「数字は出せない。俺が普段見ている範囲では、という意味だ。統計を取ったわけじゃない」
シンは画面の時刻を見た。
「ユイがその条件だったかは」
「今見えている記録だけでは分からない」
「じゃあ、異常じゃない?」
「違う」
ヴェルの訂正は早かった。
「異常ではない可能性がある、だ。説明できることと、説明されたことは別だ」
シンは黙った。安心はしなかった。一方で、昨夜のように、あの数字だけが宙に浮いているわけでもなくなった。普通の説明の候補が、一つ増えた。確かめなければならないことが、一つ増えたのと同じだった。
「その開始条件、確認できるか」
「このサマリーからは無理だ」
ヴェルは首を振った。
「俺も、すぐには見られない。記録の区分によっては、技術部門でも申請と承認が要る。お前が思っているほど、ここは何でも見える場所じゃない」
そう言いながら、ヴェルの視線はまだ画面の上にあった。最終監査開始の欄から、その下の項目へ。右手の親指が口元に上がり、爪の端に軽く歯が当たる。
「……参照が出ていないな」
「参照?」
「最終監査が始まるときには、普通、開始の理由を示す参照情報が紐づく。何を根拠に始まったのかを、後から辿れるようにするためだ。本来なら、ここにその中身が出る」
ヴェルが指さした欄には、項目名だけがあり、中身の代わりに短い注記が添えられていた。
「消えてる?」
「消えた、とは言えない」
ヴェルは親指を口元から離した。
「見えていないだけかもしれない。お前の権限の問題か、記録区分の問題か、表示の仕様か。今は区別できない」
フロアのどこかで、誰かが椅子を引く音がした。窓の外はもう暗くなっていた。
シンは画面から目を上げた。
「13:58は、説明できる」
「可能性はある」
「でも、何がその条件を満たしたのかは分からない」
ヴェルは答えなかった。
画面には、昨夜から何度も見た一行と、その下の一行が並んでいた。
最終監査開始 13:58
開始参照 詳細を表示できません
昨夜は、なぜ先なのかが分からなかった。今は、先であり得る理由なら分かる。分からないのは、その三十四分前に、何が見えていたかだった。
「……何を見て決めた?」
(第2話 了)
ユイの最終監査が、死亡確認より三十四分前に始まっていた。
それだけなら、説明はできる。
生存の見込みが極端に低いと判断された場合、最終監査が先に始まることはある。
問題は、その判断の根拠だった。
本来なら残っているはずの「開始参照」。
そこにあるのは、理由ではなく一行だけ。
「詳細を表示できません」
見えないだけなのか。
それとも、見えてはいけないのか。
『MIRA』
進学、就職、居住地など、人生の大きな選択を支援する推薦システム。
「第一推薦」「強く非推奨」「許容」などの評価を示す。
新しい情報が加わることで、再評価や条件の追加が行われる場合がある。
『AXIA(人生選択調整部門)』
MIRAの推薦と本人の希望が大きく食い違った際の相談窓口。
本人から事情や価値観を聞き取り、必要な情報をMIRAへ追加する。
AXIA自体が推薦を書き換えることはできない。
『推薦外の選択』
MIRAの第一推薦以外を選ぶことも可能。
ただし、選択によっては補助や支援の条件が変わる。
『最終監査』
案件の確定に伴い、記録の保全や事後確認を行う処理。
死亡確認後に限らず、生存の見込みが極端に低い場合などには、それ以前に開始されることもある。
ユイのケースで死亡確認の三十四分前に始まっていたことは、少なくとも一般的ではない。
『開始参照』
最終監査が何を根拠に開始されたのかを後から辿るための参照情報。
通常は最終監査の開始時に紐づく。
ユイの記録では「詳細を表示できません」となっており、中身を確認できない。
『シンとミオ』
ともにAXIAで相談対応を担当。
シンは以前、調査部門に所属。
ミオとは当時から面識があった。
『ユイ』
シンが調査部門にいた頃の相棒。
公式記録上の死因は「自殺」。
最終監査開始は13:58、死亡確認は14:32。
シンは現在も、確認できる範囲でユイの記録を調べ直している。
『ヴェル』
記録や参照履歴を扱う技術部門の職員。
シンが調査部門にいた頃から面識があり、システム仕様について相談できる相手。




