第1話 遠くへ行く理由
人生の大きな選択を支援する推薦システム、MIRA。
進学も、就職も、住む場所も、その第一推薦を選び続けてきた女性がいた。
そんな彼女が初めて望んだのは、MIRAが「強く非推奨」とした遠方への転職。
仕事、収入、人間関係、暮らし。
条件を一つずつ確認しても、そこへ行かなければならない決定的な理由は見つからない。
それでも彼女は、遠くへ行きたい。
シンとミオは、その理由を探していく。
「ここって、結局MIRAの言う通りにさせるところなんですか?」
椅子に腰を下ろすより先に、彼女はそう言った。
窓のない小さな相談室だった。白い机が一つと、向かい合わせの椅子が三脚。壁際の観葉植物は本物かどうか判別がつかない。机の中央に置かれた端末には、彼女が予約時に共有した画面がすでに映っている。二十代後半くらいだろうか。膝の上で鞄の持ち手を握ったまま、背もたれには触れていなかった。
「違います」
シンは短く答えた。相手が続きを待っているのを見て、言葉を足す。
「MIRAが見ているものと、あなたが見ているものが違うなら、それを確認するところです」
彼女の表情は変わらなかった。正確な説明が、そのまま安心につながるとは限らない。
隣でミオが少しだけ身を乗り出した。
「もう少し簡単に言うと、MIRAがまだ知らないことがないか、一緒に探すところです」
そこで、ようやく持ち手を握る指がゆるんだ。彼女は鞄を床に置き、椅子に深く座り直した。
MIRAは、進学や就職、住む場所といった人生の大きな選択を支援する推薦システムだ。今では、その助言を受けずに重要な選択をする方が珍しい。AXIA――人生選択調整部門は、その推薦と本人の希望が大きく食い違ったときに相談できる窓口だった。ここで推薦を書き換えることはできない。できるのは、話を聞き、MIRAに届いていない事情があれば、それを届けることだけだ。
端末の画面には、二つの選択肢が並んでいた。一つはトーキョー圏内の食品メーカー。商品企画職。いまの住まいから通える距離にある。もう一つは、列車で四時間ほどかかる海沿いの町の食品加工会社だった。こちらも商品開発の職で、募集は一名。それぞれの下に、MIRAの評価が小さく表示されている。
第一推薦
強く非推奨
後者の評価の下には、推薦理由の要約が続いていた。現在の人間関係の維持が困難になる可能性。長期就業継続の見通し。転居に伴う孤立リスク。文面はどれも穏やかで、どの会社が悪いとも書いていない。ただ、トーキョーに残る方が、この人の生活は安定しやすい――画面はそう言っていた。
「給与はどうなりますか」
シンが尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「少し下がります。でも家賃がだいぶ安いので、生活費はたぶんトントンです」
「仕事内容は」
「向こうの方が、商品を一から作れるんです。こっちの会社だと、既存ブランドの改良がほとんどで」
話すうちに、声が少しだけ明るくなった。仕事の話は嘘ではないのだろう、とシンは思う。
「向こうに住んだ経験は」
「ないです。旅行で一回行ったくらい。……一度くらい、外で暮らしてみたくて」
シンは頷いて、次へ進んだ。家族はトーキョー圏内に住んでいて、特に反対はされていない。健康上の問題もない。勤務条件にも、大きな差は見当たらなかった。
「推薦外の選択をすると、転居補助は縮小されます。再配置の支援も、優先度が下がります」
「知ってます。調べました」
彼女は画面の「強く非推奨」の文字に目をやった。
「正直、これが出たとき、ちょっとへこみました。そんなにダメなのかって。でも、一度くらいMIRAと違う方でもいいかなって思って」
ミオは相槌を打ちながら、メモを取らずに彼女の顔を見ていた。質問の内容よりも、答える前の間や、言い直したところの方を聞いているようだった。
「こっちの会社も、別に嫌いじゃないんです。いい会社だと思います。たぶん行ったら普通にやっていけるし。ずっと、失敗しないように選んできたので、一度くらい……」
そこで言葉が途切れた。彼女自身、続きを探しているように見えた。
少しの沈黙のあと、ミオが柔らかく口を開いた。
「さっきから、『一度くらい』って何回か言ってますよね」
彼女はきょとんとした。
「……言ってました?」
「三回くらい」
ミオが笑うと、彼女もつられたように口元を緩めた。けれど、その笑いはすぐに消えた。自分の言葉を、あらためて耳の奥で聞き直しているような顔だった。
シンは手元の画面から目を上げた。
「これまで、第一推薦から外れた選択をしたことはありますか」
彼女は首を横に振った。
「ないです。進学も、最初の就職も、今の部屋も。全部、第一推薦」
「結果はどうでしたか」
「よかったです。本当に」
即答だった。強がっている様子はない。学校は楽しかったし、職場の人間関係にも恵まれた。部屋は日当たりがよくて、駅にも近い。MIRAを恨んだことは一度もない、と彼女は言った。
「だから、後悔してるわけじゃないんです」
鞄の持ち手に、また指がかかる。
「でも……自分で違う方を選んだら、自分はどう思うんだろうって。それが知りたいのかもしれないです。うまく言えないんですけど」
ミオは一度、シンの方を見た。それから相談者に向き直り、言葉を選ぶようにゆっくり話した。
「もしかしたら、ですけど。どっちの会社を選ぶかと同じくらい、『自分で選んだ』っていうこと自体が、大事なのかなって」
断定ではなかった。語尾は問いかけの形で、ミオはそれ以上は踏み込まずに待っていた。
シンは画面を自分の方に少し引き寄せ、入力欄を開いた。
「選択の結果とは別に、自分で決めたこと自体に価値を置いている」
そう言ってから、手を止めて相談者の目を見る。
「そういうことですか」
彼女はすぐには答えなかった。視線が机の上をさまよい、一度だけ画面の二つの選択肢の間を往復する。
「……多分、それだと思います」
「なら、追加の価値情報として入力します。MIRAが再評価します」
シンが文言を整えるあいだ、ミオが相談者に簡単に流れを説明した。入力された情報は、本人の確認を経てMIRAへ送られる。再評価の結果がどうなるかは、誰にも約束できない。入力内容を相談者に見せ、了承を得てから、シンは送信した。
再評価には数分かかった。ミオが給湯スペースから紙コップのお茶を三つ持ってきた。相談者は礼を言って受け取ったが、口はつけずに画面を見ていた。シンは自分のコップを机の端に置いたまま、表示が切り替わるのを待った。
小さな通知音が鳴った。
第一推薦は、変わらなかった。トーキョー圏内の食品メーカーが、同じ位置に表示されている。変わったのは、その下だった。
強く非推奨 → 条件付き代替案
条件として、三つの項目が添えられていた。現地の生活支援サービスへの登録。一年後の再評価。孤立の兆候が見られた場合の相談窓口の案内。補助の縮小は変わらないが、評価の文面からは「非推奨」の語が消えていた。
「……変わるんだ」
相談者が小さく言った。
「MIRAが知らなかったことを伝えただけです」
シンの説明に、ミオが付け加える。
「第一推薦は、そのままですけどね」
それが何を意味するのかを、相談者はしばらく考えていたようだった。MIRAは彼女の話を聞いたうえで、それでもトーキョーに残る方がいいと言っている。ただ、海沿いの町を選ぶことも、もう無謀な選択とは言っていない。
お茶が半分ほど冷めたころ、彼女は顔を上げた。
「向こうにします」
「怖くないですか?」
ミオが尋ねた。止めるための問いではなかった。
「怖いです」
彼女は正直に答えた。
「知ってる人、誰もいないし。補助も減るし。でも、怖いのも含めて、自分で選んだって思いたいので」
それから、少しだけ冗談めかした調子でシンの方を向く。
「後悔しますかね」
「する可能性はあります」
一拍の間があった。ミオが横で小さく息を吸ったのが分かった。
「……そこは止めてくれないんですね」
「後悔の可能性は、判断材料の一つです。それだけで決めるものではありません」
相談者は目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「そうですね。そうかも」
手続きは十分ほどで終わった。彼女は立ち上がり、鞄を肩にかけて、入ってきたときより少し軽い足取りで相談室を出ていった。扉が閉まる前に一度振り返り、二人に頭を下げた。
扉が閉まると、ミオが紙コップを片づけながら言った。
「最後の言い方、もう少し何とかならない?」
「間違ってない」
「間違ってないことと、いい言い方だったことは別」
シンは反論しかけて、やめた。ミオの言うことにも、筋は通っている。
「まあ、最初よりはマシになったけど」
「最初?」
ミオは紙コップを重ねる手を止めず、ちらりとだけシンを見た。
「ここに来たばっかりの頃。相談者に『結論から、お願いします』って、一回の面談で三回くらい言ってた」
シンは黙った。心当たりがないとは言えなかった。調査部門にいた頃、ミオとは廊下で会釈を交わす程度の間柄だった。こうして言い方にまで口を出されるようになったのは、同じ相談室に座るようになってからだ。
相談記録の処理を終えたのは、定時を少し過ぎたころだった。聞き取り内容、追加入力した価値情報、再評価の結果、本人の最終選択。必要な項目を埋めて提出したあと、シンは手元の作業メモに一行だけ書き足した。
――「一度くらい」(三回)
事件でも何でもない。ただ、本人が実際に口にした言葉だった。自分が質問を並べているあいだに、ミオが拾ったもの。次に似た相談が来たとき、同じ言葉を聞き逃さないように。
フロアの照明が半分に落ちた。
ほとんどの職員は帰っていた。ミオは奥の席で、まだ何かの書類をまとめている。シンは業務用の画面を閉じ、別の検索窓を開いた。入力する名前は、見なくても指が覚えていた。
以前いた調査部門からこのAXIAへ移って以来、かつて参照できた記録の多くに、シンは手が届かなくなっている。それでも、今の権限で確認できるものは残っていた。異動してから、シンはそれを一つずつ洗い直している。
ユイ。
調査職時代の相棒だった男の記録は、驚くほど短かった。氏名、所属、死亡日。公式結論の欄には、一語だけが記されている。
自殺。
シンはその文字を長くは見なかった。ここまでは、もう何度も読んでいる。記録の本体は、すでに一通り確認を終えていた。今夜は、その下に添えられた監査サマリーの番だった。記録の受理、関係部署への通知、確定処理。事務的な項目を上から順に追い、時刻の欄で目を止める。もう一度、最初から読み直した。見間違いではなかった。
シンは、まず自分の読み方を疑うことにした。記録の時刻が複数のシステムにまたがっているなら、同期のずれがあり得る。サマリーの時刻表記を確認すると、すべて同じ基準時で統一されていた。タイムゾーンの取り違えもない。次に、その日前後のシステム更新履歴を引いた。定期メンテナンスの記録はあったが、該当時刻とは重ならない。記録の登録遅延も疑ったが、各項目には発生時刻と登録時刻が別々に記されていて、どちらも辻褄が合っていた。表示順の入れ替わりでもない。時刻の修正履歴は、一件もなかった。
どこにも、明確な異常はなかった。
異常がないまま、二つの数字だけが残った。
死亡確認 14:32
最終監査開始 13:58
監査は、死亡確認より三十四分早く始まっていた。
「シン」
顔を上げると、ミオが上着を腕にかけて立っていた。いつからそこにいたのか、気づかなかった。彼女の視線は画面には向いていない。シンの顔だけを見ている。
「それ、仕事の顔じゃないね」
「どういう顔だよ」
「私が知ってる範囲では、ってこと」
ミオはそれ以上何も訊かなかった。数秒、シンの返事を待つようにしてから、小さく肩をすくめる。
「お先に」
「ああ」
足音が遠ざかり、フロアの扉が閉まった。空調の低い音だけが残る部屋で、シンはもう一度、画面の二つの時刻を見た。
13:58。
14:32。
検索窓にカーソルを移し、文字を打つ。
最終監査 開始条件
実行キーの上で、指が一度止まった。
「……なんで先なんだ」
シンはキーを押した。
(第1話 了)
MIRAが知らなかった価値観を伝えたことで、「強く非推奨」は「条件付き代替案」へ変わった。
第一推薦は変わらない。
それでも、選べる道の意味は少しだけ変わった。
そんな一日の終わり、シンが開いたのは、かつての相棒・ユイの記録。
そこには、説明のつかない三十四分が残されていた。
最終監査開始 13:58。
死亡確認 14:32。
死が確認されるより先に、何かが始まっていた。
『MIRA』
進学、就職、居住地など、人生の大きな選択を支援する推薦システム。
「第一推薦」「強く非推奨」などの評価を示す。
新しい情報が加わることで、再評価される場合がある。
『AXIA(人生選択調整部門)』
MIRAの推薦と本人の希望が大きく食い違った際の相談窓口。
本人から事情や価値観を聞き取り、必要な情報をMIRAへ追加する。
AXIA自体が推薦を書き換えることはできない。
『推薦外の選択』
MIRAの第一推薦以外を選ぶことも可能。
ただし、選択によっては補助や支援の条件が変わる。
『シンとミオ』
ともにAXIAで相談対応を担当。
シンは以前、調査部門に所属。
ミオとは当時から面識があった。
『ユイ』
シンが調査部門にいた頃の相棒。
公式記録上の死因は「自殺」。
シンは現在も、確認できる範囲でユイの記録を調べ直している。
最終監査開始 13:58
死亡確認 14:32
最終監査は、死亡確認より三十四分早く始まっている。




