神統断片拾遺 叡智神 クロル・ファナ・シーデリ その2
その為か、叡智神はあらゆる時代・地域・民族で、人だけではなく、言葉を話す存在すべてから愛され、敬われ、祈られ続けてきた。読者におかれても、年のどこかで叡智神にまつわる祭りに参加したり、節目の祈祷の中で、様々な寓話の中で、わらべ歌や吟遊詩人の楽曲など、叡智神の威光に触れたことがないものは一人もいないことであろう。かの神についての文献もはなはだ多く、それらをもしまとめるとしたなら、それだけでも一つの大きな図書館を作らなければならぬほどであろう。
ゆえに本章の考察は、これまでと趣を変える。塗り潰された下を掘るのではない。あふれ出たものを、すくい集めるのである。統一神書という一枚の、いかめしい肖像の周りに、人々が、愛のあまり描き添えてきた、無数の小さな絵を。そのいくつかを、ここに並べてみたい。
ひとつめは、学都ヴェレンに、いつ頃からか続く「問巡の祭り」である。
毎年、秋の夜、子らと若き学徒は、手に手に小さな青き灯を提げ、町を巡りながら、たがいに謎をかけ合う。ただし、この祭りで尊ばれるのは、謎を解くことではない。誰にも、神にすら、解けぬ問いを、立てることである。「空の青は、どこで終わるのか」「忘れた夢を、忘れたと、なぜ覚えていられるのか」。最も多くの者を、そして神を、黙らせた問いを立てた子が、その年の「問の長者」として、皆に担がれる。
この祭りで演じられる古き寸劇に、こういう一幕がある。あまたの賢者が、次々と神に難問をぶつけるが、神はことごとく、よどみなく答えてしまう。ところが、最後にあらわれた小さな子が、たどたどしく、たった一つの問いを口にすると、神は、はたと黙りこむ。長い沈黙ののち、神は、こう言うのである。
……わからぬ。それは、わたしにも、わからぬ。
そして、声をあげて、楽しげに笑う。客席の子らは、どっと沸く。神を笑わせ、神を負かした、その子の名は、その晩、町じゅうに響く。
ヴェレンの古老に言わせれば、この祭りで担がれた「問の長者」のなかには、後に名高き学者となった者も、少なくないという。されど、祭りが愛されるのは、賢き者を生むからではない。一年に一夜だけ、子が大人を、いや、子が神をすら、堂々と負かしてよい、というその一夜の無礼講のなかに、人々が、この神の本心を、いちばん正しく感じ取っているからである。問いの前では王も乞食も等しいと統一神書は説くが、ヴェレンの子らは、問いの前では神と子すら等しいのだと、笑いながら、それを地で行く。頑迷なものであれば、人が神と等しいなど不敬というだろうが、叡智神がこれに神罰を起こしたなどという記録は一様たりとも存在していないのである。これほど大らかな、神への敬い方を、筆者はほかに知らぬ。ここにあるのは、いかなる偽りをも見透かし、一切の真理をおさめ、声を荒げることなく理を解きほどく、静謐にして全知の神である。故に、わからぬことは、わからぬと真摯に答えるのであり、まして、わからぬことを、見下したりしない。だからこそ、神は、子に負けて、笑うのだ。全知の神の、もっとも人間くさい、もっとも愛らしい一面が、この祭りの笑い声のなかに、たしかに息づいている。
ふたつめは、子守唄である。
諸国の母たち、父たちが、寝つかぬ我が子の枕辺で、古くから口ずさんできた唄のなかに、叡智神を歌うものが、おどろくほど多い。次はいろいろな土地で似たような言い回しで歌われる子守歌で、節は土地ごとに違えど、文意は、おおむね、こうである。
ねむれ ねむれ
あおの君が 見ていなさる
きょうの「なぜ」は みんな書きとめ
あしたの「なぜ」を ふところに
ねむれ ねむれ
あおの君の ひざのうえ
一日のあいだに子が問うた、数えきれぬ「なぜ」を、青の君がひとつ残らず書きとめて、明日の問いを懐に抱いて眠らせてくれる、という唄である。
この子守唄を題材にした絵画もいくつかあり、面白いことに、穏やかな顔をした女性が子を抱きかかえる姿がほとんどである。叡智神は男女の別なく中性である。おのが存在で完結しているからこその全知なる存在であるが、子守歌という性質ゆえか女性の姿として、特に母性溢れるふくよかな姿で描かれることが一般的である。全き公平を説く神が、揺りかごの高さでは、世界でいちばん身近な母になる。荘厳な定義の一行が、子守唄のなかで、こんなにも温かい意味へと、ほどけていく。統一神書の語らぬ、この神の、親としての顔が、夜ごと、無数の家の枕辺に、たしかにある。




