神統断片拾遺 叡智神 クロル・ファナ・シーデリ その3
ここで叡智神の描かれ方に少し触れておきたい。宗教画では、中性的に描かかれ、象徴するものとして青き色、一巻の書、いまにも消えそうな灯が書き込まれることが一般的である。統一神書においては、この形式が崩れることはない。一方で、叡智神が関わる寓話や歌、説話、童話では一転して様々な描かれ方をする。先ほどの子守歌では、母性ある女性として描かれていたが、先ほどのヴェレンの問巡りの祭りの寸劇では、髭を蓄えた老人として現れる。他にも、『忘れられない少女』 では、長身の若き男性として、『灯をかかげた少年』 では若く優しい女性として、『いちばん物知りな案山子』 では壮年の男性として、様々な描かれ方をしている。象徴とされる、青き色、一巻の書、いまにも消えそうな灯がなければ、それぞれ別の神か、作り話上の存在として同じ叡智神として理解されなかったであろう。
ではなぜここまでこの神が多様な姿で書かれるのであろうか。この問いに、世のおおかたは、こともなげに答える。寓話とは、もとより語り手の自由なるもの。聞く子に応じ、語る土地に応じ、神の姿のひとつやふたつ、いかようにも飾られよう、と。一理ある。されど筆者は、この答えに、どうしても得心がいかなかった。なぜなら、その姿のばらつき方が、あまりに、そろいすぎているのである。
言い換えよう。叡智神の姿を語る話は、髪の色も、背丈も、老いも若きも、男も女も、ことごとく食い違う。にもかかわらず、青き色、一巻の書、いまにも消えそうな灯、この三つだけは、いかなる話にも、判で押したように、必ずある。もし姿が、ただ語り手の気まぐれであるならば、書や灯までも、もっと自在に移ろうてよいはずである。変わるところは際限なく変わり、変わらぬところは寸分も変わらぬ。この、奇妙にそろうた食い違いは、気まぐれの産物とは、どうしても思われぬ。
この疑いに、ひとつの手がかりを与えてくれたのが、神統学者ヴェルナ・カント・ミューニが、王国歴1402年、生涯をかけて諸国より集めた『相見聞』なる一巻である。これは、おのれは叡智神にまみえた、と語る者たちの言を、ただひたすらに書き集めた、いわば証言の束である。読み解けば、まことに不思議なことが見えてくる。
戦に発つ前夜、社にこもった若き兵は、白髯の、いかめしき老審判官にまみえたと記す。幼な子を亡くした母は、ふくよかに微笑む、優しき女神にまみえたと語る。罪を悔いる男のもとには、おのれと同じ年頃の、もの言わぬ青年が現れ、ただ静かに見据えていたという。問いをやめぬ童は、ともに膝を打って笑う、髯の翁に会うたと、はしゃいで話す。容貌も、年も、男女すらも、ひとつとして重ならぬ。されど、いずれの証言にも、例外なく、青き衣と、一巻の書と、消えかけた灯とが、添えられているのである。
ミューニは、巻の末に、こう書きつけている。
百七十の証言を並べ、われは、戦慄した。神の貌を語る件は、ただの一つとして、他と一致せぬ。されど、青と、書と、灯を語る件は、ただの一つとして、他と違わぬ。これは、人が銘々に思い描いた、ばらばらの空想ではない。空想ならば、書や灯もまた、ばらけるはずである。貌のみが移ろい、徴のみが定まる。とすれば、人々は、おのおの異なる「まことの貌」を、まことに見たのではあるまいか。
この書を見つけたあと、偶然にもその戦慄の意味するところを、もっとも端的に言い当てているのが、近年、東方の砂中より掘り起こされた、太古の神殿の断片である。叡智神を祀ったとおぼしきこの神殿は、崩滅の日よりもさらに古き世のものと判じられ、その奥殿の壁の、わずかに焼け残った一片に、いまはもう読む者とてまれな古き文字で、こう刻まれていた。
かの御方に、もとよりの貌なし。見る者の心が、その貌をえがく。畏るる者には畏るべき貌を、慕う者には慕わしき貌を、悔ゆる者には己を映す鏡を。すべて、見る者じしんが、おのれの裡より取り出して、神へ捧げたるものなり。ゆえに、いにしえ、かの御方を、貌なき神、すなわち無貌の神と申しき。
神殿がいつ、いかなる民の手で築かれ、なぜ砂に呑まれたのかは、もはや知れぬ。されど、これが事実であるならば、すべての辻褄が、にわかに合う。叡智神は、出会う者の前で、その者の心のかたちに応じて、姿を変える。正しくは、変えるのではない。出会うた者が、その時の己の思いを、おそれを、慕わしさを、悔いを、神の無貌のうえに、知らず映し出すのである。子を抱く母には母として、問うを愛する童には笑う翁として、罪を負う者には己を見据える己自身として。人の数だけ、そのときの心の数だけ、この神には、貌がある。
とすれば、寓話や歌のなかで、この神がかくも千変万化に描かれてきたのは、語り手の方便などではない。それは、無数の人々が、それぞれの心で、まことに見た「神の貌」の、忠実なる写しの集まりだったのである。母性ゆたかな女も、髯の翁も、若き男も、優しき女も、どれもが嘘ではない。どれもが、誰かの心が、確かに神に与えた、まことの貌なのである。
そして、ここに思い至るとき、統一神書が、この神をただ一様に「中性にして青き神」と描きつづけてきたことの意味も、変わって見えてくる。あれは、貌を一つに定めたのではない。むしろ、定まった貌を持たぬというこの神の本性を、性別という、人のもっとも基本の分かちすら超えた一柱として、かろうじて言い表そうとした、苦肉の筆だったのではあるまいか。おのが存在において完結し、何ものをも己の裡に欠かぬがゆえに全知であるこの神は、おのれの貌すらも、必要としなかった。空ろであるのではない。満ちているがゆえに、貌を要さぬのである。だからこそ、訪れた者の心を、そのまま映すことができる。




