神統断片拾遺 流転神 セレ・ミウ・ターリエ その7
最後に、この章で見てきたことを振り返り、流転神の章を閉じたいと思う。
この神の恵みとは、何かを与えることではない。人から、何かを流れ去らせることである。ニナのそばに膝をついた神は、この子に何一つ授けなかった。濁った水を掬い、そっと放しただけである。あとは流れが運んでいった。水送りの晩に我らのすることも、つまるところ同じで、名を書いた板を、我らは自分の手で水にあずける。神は受け取りもせず、預かりもせず、ただ流れのほうを、絶やさず通しつづけている。穢れが下流へ行くのも、澱んだ魂がふたたび巡るのも、みなこの流れあってのことである。手放したいものを抱えたまま立ち尽くす者のために、持っていってくれる水が、いつでも足元を流れている。この神の恵みとは、それに尽きるのではないかと、章を書き終えたいま、筆者は思うている。
断っておくが、この神が人から何かを引き剥がしてゆくのではない。リーグデの民の負うたものを思い返せばよい。あれは神が取り立てたものではなく、差し出された一口を、人の側が二口飲んだ果てのものであった。神は流れを通す。その流れに何をあずけ、何を抱え込むかは、いつも人の側に残されている。ドルナスは流れそのものを堰き止めて、抱え込むほうを選んだ。あの顛末は、すでに見たとおりである。
そして、この章を書きながら筆者の目に留まりつづけたのは、神そのものではなく、その流れの岸に立つ人間のほうであった。
流れにあずけられぬものを負うた者たちのために、リーグデの民は商会を建てた。留まれぬ者たちが、留まれる者を外から迎えて動かぬ器を作り、重いものを負うた子らへ、金と寝床を送りつづけている。オーフォリアは、授かった秘術を独りで抱えず、見込みのある者に伝えた。それが二千年、澱んだ魂を流しつづける会になった。水送りの晩、人は寄り集まって、泣き、笑い、語り尽くしてから名を流す。手放すという、いちばん独りではできぬことを、人は昔から、寄り合ってしてきたのである。
神は流れを通し、人は、その岸で支え合う。この神が何も与えず、何も告げぬからこそ、人が互いに与え合う形が、流れの岸に沿っていくつも生まれた。商会も、葬礼会も、祭りの宴も、みなそれである。流転神を語るつもりで始めたこの章が、気がつけば民の話、会の話、祭りの話ばかりになっていたのは、筆者の脱線ではなく、この神の語られ方そのものなのであろう。この神の姿は、岸に立つ人間の営みの側にしか、はっきりとは映らないのである。
この神は、右の目で、すべての終わりをとうに見ている。誰がいつ死ぬのかも、どの願いが叶わぬのかも、見終えている。それでいて、人に向けるのは、いつも左の目であった。日ごと泉に来るドルナスを見たのも、ニナのそばに膝をついて見ていたのも、左の目である。神書はその理由を、恵みである、としか記さない。
章を書き終えたいま、筆者はこの一言が、はじめより少しは分かる気がしている。明日を知る目で見られたなら、我らは、すでに決まった明日を生きるほかなくなる。今を映す目で見られているからこそ、我らは今日を、まだ決まっておらぬものとして生きていられる。すべてを知る神が、知らぬ顔で、ただ見ている。冷たさとも優しさともつかぬその眼差しが、この神の、最後まで変わらぬ在りようであった。




