神統断片拾遺 流転神 セレ・ミウ・ターリエ その6
最後に流転神にまつわる祭事についても、触れておきたい。秋の終わり際、刈入れの月の末に諸国で行われる、水送りの祭りである。
趣向は土地ごとに多少の違いがあるが、骨組みはどこも変わらない。故人の魂が迷わず、次のよき生を得られるようにと祈る祭りで、村や町の中央に人が集まり、廻水葬礼会の神官が、神官のいない小さな村では村長が、祈祷を行う。人々は故人の名を木の板に書き、小さな船に載せて、あるいはそのまま、灯を添えて、川へ流す。夕暮れどき、名を載せた灯りが幾十も川面を下ってゆく眺めは、一年の祭事のうちでも殊に美しいものとされ、これを目当てに旅をする者もある。流し終えたあとは宴となり、酒が出て、故人の思い出話に花が咲く。弔いの祭りでありながら、宴の席はたいてい笑い声でにぎやかである。
ところで、この祭りの由来を尋ねると、答えられる者が存外におらぬ。神官に聞いても、古くからの習わしとしか返ってこぬことが多い。長く続く祭事でありながら、なぜ名を書いて流すのか、なぜ宴を開くのか、いわれを記した書はほとんど残っていない。
筆者の知るかぎり、まとまった記録は一つである。聖都オーフォリシアの書庫に蔵される、『水葬秘伝』のもっとも古い写本に、今日流布している同書にはない「別記」と題された一巻が付されており、聖者オーフォリアの晩年の一件が書き留められている。後代の写本がこの巻を落とした事情は分からない。長いので、筋を追って引く。
崩滅ののち幾年、ケルヴァなる村ありき。この村、戦禍を免れ、死者はことごとく礼に従いて葬られ、儀に欠くるところなし。しかるに、魂、去らず。夜ごと、村の辻に、川辺に、亡き者どもの気配立ちて、消えざりき。
聖者、召されて村に入り、秘術を尽くしたまう。されど魂、流れず。聖者、術の及ばざるを恥じ、夜半、独り川辺に立ちて問いたまえり。わが術の、いずこか誤れるや、と。
水の面より、答えありき。
汝の術に、誤りなし。堰は、死者のうちに在るにあらず。生きたる者のうちに在り。
聖者はその意を解しかね、重ねて問うた。別記はそのやり取りを、次のように伝えている。
この村の死者は、迷うておるのではない。引き留められておるのだ、と神は告げたまえり。崩滅の世、人はあまりに急に死したり。別れの言葉なく、看取りの夜なく、朝に発ちて夕べに骸となる。残されし者、その死を、いまだ受け取っておらず。受け取らざる死は、済まざる死なり。生者が手放さざるかぎり、死者は、岸を離るること能わず。
聖者、問いたまう。されば、いかにすべきや。忘れよと、彼らに説くべきや。
神、首を振りたまえり。忘れたるものは、手放されたるにあらず。落としたるのみ。まず、存分に、覚えよ。しかるのちに、水に、あずけよ。
そして神は、その手立てを授けた。別記の記すところは、こうである。
名を、板に書け。名は、そのものの重さなり。夜もすがら、亡き者のことを語れ。よきことも、悪しきことも、残さず語れ。泣くを禁ずるな。笑うを禁ずるな。語り尽くして、朝、その名を、川に流せ。水は、留めぬ。水は、運ぶ。
村人、教えのままにせり。一夜、死したるものの話をなし、泣き、また笑い、明け方、名を載せし小船を、一つ一つ、川へ送れり。船の見えずなりしとき、村の空気の、にわかに軽くなりしを、誰もが覚えたりという。その夜より、辻に立つ気配は、絶えたり。
聖者、のちに弟子へ語りたまえり。われは長らく、澱みは死者のうちにのみ生ずると思うておった。違うたのだ。生者の執着もまた、堰となる。ゆえに、弔いとは、死者のためにのみするものにあらず。残りし者が、その手を開くための儀なのだ、と。
別記の伝えるところは、以上である。
これに照らすと、いまの祭りの手順は、そのままこの教えをなぞっていることが分かる。名を板に書くのは、故人を名という形にして生者の手からいったん取り出すためであり、川へ流すのは、水がそれを運び去るためである。宴の思い出話も、祭りのあとの楽しみとして付いたものではなく、存分に覚えてから手放せという教えの、覚える側にあたる。むしろ順序からいえば、語り尽くすことのほうが本体で、流すのはその仕上げということになる。
この由来が伝わっていないのは、惜しいことである。今日、水送りは死者の旅路を祈る祭りと理解されているが、別記に従えば、生者が別れを受け取り納めるための祭りでもあった。もっとも、いわれが失われても、形が残っていれば用は足りるのかもしれぬ。名を書けば人は思い出し、流せば見送り、宴に着けば語る。教えを知らぬまま、教えのとおりのことが、毎年行われている。
付け加えておくと、戦や疫病で祭りの絶えた土地に幽鬼の出た話は、記録にいくつか残っている。人はこれを、弔いが行き届かなかったためと言い習わしてきた。別記の説くところに従うなら、それは死者の側の問題であると同時に、見送りそこねた生者の側の問題でもあったことになる。
筆者も先年、身内を送り、その年の水送りで名を流した。いわれを知ったのはこの別記を読んでからだが、思い返せば、あの晩、宴の席で気づけば笑って故人の話をしていた。教えのとおりのことを、知らずにしていたわけである。




