神統断片拾遺 流転神 セレ・ミウ・ターリエ その2
さて、流転神について語るにおいて、触れぬわけにはいかぬ、二つの人々がある。一つは、あの占術の徒であり、留まることを許されざる、放浪のリーグデの民。いま一つは、葬送を担い、あらゆるものの最期を見送る、廻水葬礼会の一団である。まずは、リーグデの民から記していきたい。
世に知られているリーグデの民は、おおむね、こういう民族と知られている。
定住の地を持たぬ。占いを生業として世を巡り、旅するのはたいてい一人か、多くとも二つ三つの家族どうしである。群れることを好まず、一つところに腰を据えることもない。どれほど居心地のよい町であろうと、半年を越えて留まったという話を、筆者はついぞ聞かなかった。彼らは流転神を篤く信仰し、身に着けるものにおいても、水色を貴色とし重用し、どこかには取り入れるのである。
かの民に、明日の天気や起こるだろうことを聞くとき、「流転神様の思召すままには」と話始めるのは、よく聞く話であろう。
その占術は、よく当たる。市井の吉凶を占うにとどまらず、一国の王がひそかに彼らを召して先を問うたという話さえ、珍しくない。彼らはまた、世の隅々を歩き、たまさか同族と行き合えば、見聞きしたことを交換する。ゆえに諸国の道の事情や相場の動きに、驚くほど詳しい。占い師であると同時に、生きた情報の器でもある。商人が彼らを重んじるのは、そのゆえである。
見た目で見分けることは、できぬ。血が幾重にも混じり合い、肌の色も背丈もまちまちで、並べてみればなんの共通も見あたらぬ。ただ一つ、彼らを彼らたらしめている徴がある。目である。リーグデの民は必ず、左右いずれかの目を布で覆うている。それを人前で外すことは、けしてない。
ときに、この民を騙って占いを商う者が現れる。本物と偽物とは、同族にはすぐ知れるらしい。そして彼らは、おのれを騙る者に対してだけは、いっさい容赦がない。ふだんは諍いを避け、風のように立ち去るばかりの人々が、である。
以上が、世に知られたリーグデの民である。その出自や成り立ちは、多くの人に知られうるほど明確にはなっていない。
まず問うべきは、なにゆえこの民が、かくも占術に長け、かくも留まらぬのか。
記録は少なく、それというものも見つからなかったが、逆刻の民ターリャとの語らいを書き集めたという、『逆流抄』なる奇書に一つの可能性を見出すことができた。時を逆しまに生きるこの民の言葉は前後が入り乱れ、ありえぬことを事実のように、事実をたわごとのように語る。ゆえにこの書も、まともに読める代物ではない。ただ一箇所、筆者の目を離さぬ断片があった。
……二口。だめよ、二口は。……いいえ、まだ飲んでいないわ。もう飲んでしまったけれど。……あの子、泣いていた。もう追われたくない、と。だから、欲が出たの。こわいから、欲が出るのよ。……女神さまは、一口と言った。一口で、足りたのに。……それで、あの子は、水になった。ずっと、流れている。いまも。……あの子の名前? わたし、もう、忘れてしまった。
これだけでは、何も言えぬ。惚けた老人の繰り言である。リーグデという名も、泉の名も、少女の名も、どこにも出てこない。本来なら、書き写してそれきりにすべき類のものであった。
されど、この断片は頭を離れなかった。二口。一口で足りたのに。その言い回しが、妙に耳に残った。そこで筆者は、似た匂いのする記述がほかにもありはせぬかと、あたりを探しはじめた。以下は、そうして集まったもの一部である。いずれも、それ一つでは何の証にもならぬ、頼りない紙片ばかりであることを、先に断っておく。
一つは、北の山間の、ある一帯に、いまも残る禁忌である。かの地の者は、山の泉の水を、一口までしか飲まぬ。二口目に手を出すと、旅から帰れなくなる、と言い伝えられている。なぜそうなのかを問うても、誰も答えられぬ。昔からそう言われている、と繰り返すばかりであった。
もう一つは、千年の闘争のころの、被害の記録である。滅ぼされた土地と民とを、ただ書き並べただけの、味気ない目録であった。そのなかに、ある遊牧の民について、こういう一行が混じっている。「追い立てられ、山の奥深くに逃げ込んだ。滅びはしなかった、だがその行く末は誰も知らない」。滅んだのでもなく、逃げ延びたのでもない。還らなかった、というのである。書いた者も、この一行をどう扱えばよいのか、決めかねたのであろう。
最後の一つは、文献ですらない。リーグデの民自身の、商いの習わしである。彼らは、一人に対して、二つ以上は占わぬ。どれほど積まれても、二つ目には応じぬ。なぜかと問うても、答えぬ。占い師の見栄か、値を吊り上げる手管か。そう見る者が多い。筆者も、長らくそう思っていた。
これらを並べたところで、証明となるものは何一つない。しかし、様々な断片を集めていく中で、浮かび上がってくるものがある。かの民たちについての、それに関わりそうな古文書を拾遺するなかで、一つの想像が生まれた。これは筆者の憶測であって、確証あるものではないが、手に入った史料をもとに一つの話をここに記したい。
千年の闘争の終わりに近きころ、ある地方に、遊牧して暮らす人々があった。彼らは万夜の一族に襲われた。幾度も撃退したが、襲撃は止まなかった。ついに山へ、山へと逃げ込むほかなくなり、逃げ延びた先の、山あいの泉で、その日は休むこととした。
絶え間ない襲撃に疲れ果て、悲しみに沈んだ一人の少女が、泉のほとりで祈った。助けたまえ、と。
たまたま、その泉に流転神が通っておられた。神はその嘆きを聞き、顕れた。そして少女に、水を掬うて差し出した。助かる道筋の先を映す水である。一口飲めば、いまの窮地は逃れられる。神は、そう告げた。
少女は、二口、飲んだ。
こんな目に遭うのは二度と厭だ。その恐れが、欲を生んだのであろう。過ぎたる神の力は、祝福を通り越して呪いに転ずる。一口は、目の前の窮地を抜ける道を見せるだけの、ささやかな恵みであった。二口目が、この少女に、神の力の一端そのものを宿らせてしまった。来るべきものを見通す、あの目である。力とともに、この神の性までが引き継がれた。留まらぬこと。留まれぬこと。少女は罰として、流れつづけることを定められた。
この神は、魂の巡りを司る。ゆえに少女ひとりの咎は、少女ひとりに留まらなかった。同じ流れより汲み出された魂、すなわち血を分かつ民のことごとくへ及んだ。あの遊牧の民はその日を境に、留まることを許されぬ民となり、いまに至るまで、世を流れつづけている。
繰り返すが、これは憶測である。どの紙片にも、リーグデの名は出てこない。右の話は、筆者が無縁の断片をおのれの手で繋ぎ合わせ、繋がるように読んだものにすぎない。
もっと悪い見方もできる。禁忌というものは、理由が忘れられたあとで、もっともらしい謂れを後から付けられるのが常である。筆者の組み立てたこの話が、まさにその後付けの謂れでないと、誰に言えよう。そのうえ、これらの紙片がたがいに無縁である保証もない。もとは一つの語りが諸国へ散り、形を変えて残っただけかもしれぬ。それならば、いくつ並べようと、証人ははじめから一人しかいない。
それでも書き留めておく。これが今後の研究の礎にならんことを祈って。




