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神統断片拾遺 堅磐神 ガルド・モーン・ダグレナ その3

 次に、この神が人の世に直(じか)に力を貸したという語りのなかで、最も名高いのは、千年の闘争のさなか、一人の英雄に神剣を授けたという一篇だろう。諸国の軍記に、吟遊の歌に、かたちを違えて数多く残るが、骨子はおおむね次のようなものである。


 その男を、ヴェルグといった。もとは東の辺境の小国サーレンに生まれた、名もなき一兵にすぎない。だが万夜の闘争がその地を襲ったとき、彼の運命は砕けた。反逆神の眷属たる万夜の一族が、サーレンをひと夜のうちに呑んだのである。父も母も、妻も、まだ歩きもせぬ幼子も、彼が戦に出ているあいだに、ことごとく闇へ堕とされた。灰となった故郷の焼け跡にただ一人立ち尽くしたその日から、ヴェルグは変わった。


 彼を突き動かすものは、ただ憎しみだけであった。奪われた者たちへの、返しても返しきれぬ復讐の念だけであった。万夜の一族のあるところ、いずこへも彼は駆けつけた。剣を執れば鬼神のごとく、退くことを知らず、敵を屠(ほふ)るのに寸分のためらいもない。人は彼を、修羅のヴェルグと呼んで畏れた。神々の軍にとって、これほど頼もしい人の剣はなかった。


 だが、いくら敵を斬っても、いくら戦場(いくさば)で讃えられても、胸の底にぽっかり空いた穴は、けして埋まらなかった。斬れば斬るほど、飢えはかえって増した。斬るべき敵を求めて、彼の心はいつもはやっている。落ち着いて足元を見るということが、もう、できなくなっていた。


 そして、その日が来る。ある戦場で、ヴェルグは逸(はや)った。まだ機も熟さぬのに、目の前をよぎった万夜の将の首、それだけに目がくらみ、味方の陣を待たず、ただ一騎で突出したのである。罠であった。彼を追って崩れた味方の一隊は、囲まれ、討たれた。そのなかに、リドという年若い者がいた。サーレンのただ一人の生き残りで、ヴェルグを兄と慕い、彼を守らんとして従いてきた者であった。リドはヴェルグをかばい、その背を庇うて死んだ。故郷の血の、最後の一滴であった。


 おのれの逸りが、味方を、そして故郷の最後の血を、無為に殺した。その事実を前に、修羅のヴェルグは、はじめてくずおれた。俺が斬ってきたのは、敵だったのか。それとも、俺が守るべきものだったのか。もう、わからなかった。ヴェルグは血に濡れた剣を地に突き立て、そこへ置いた。二度とこれを執るまい。そうして、あてもなく山へ分け入った。


 たどり着いたのは、鉄色の岩ばかりの、けわしい、名も無き山であった。ヴェルグはその大きな一つの岩の前にへたり込み、幾日も動かなかった。死ぬことすら、もう、おのれには値せぬと思われた。


 どれほどそうしていたか。ある夜半、地の底から、ずうん、と腹に響く重い岩鳴りが聞こえた。そして、目の前のあの大きな岩が、ゆっくりと動いた。岩ではなかった。鉄色の、山のごとき巨神であった。堅磐神が、この上なく遅い足取りで、彼の前に現れたのである。


 神は、ヴェルグが置いてきたはずの、あの折れた剣を、巨大な掌に載せていた。いつのまに拾ったものか。責める言葉は、一つもない。神はただ、その折れた剣を掌の上で握りしめる。体内の炉の熱が、鉄を赤く熔かしてゆく。それを、幾日も、幾月もかけて、神は打った。急がず、けして急がず。ヴェルグはそのあいだ、ただ待った。斬ることしか知らず、待つことを忘れていた男が、生まれてはじめて、じっと待ったのである。


 やがて、一振りの新しい剣が鍛(う)ち上がった。神はそれを、彼の前の岩へ深々と突き立てる。そして、はじめて口を開いた。地鳴りのような、ゆるやかな、たった幾言(いくこと)であった。


 「抜け。おのが手で。」


 ヴェルグは柄(つか)を握り、力を込めた。剣は、びくともしない。渾身の力で幾度引いても、山ごと引き抜こうとするように、一分(いちぶ)も動かなかった。修羅の膂力(りょりょく)をもってしても、である。汗みずくで膝をつく彼へ、神はふたたび、ゆるゆると告げた。


 「その剣、恨みにて抜かんとせば、山なり。誰かを護らんとして抜かば、羽なり。……おまえは今、誰の顔を思うて、それを握った。」


 ヴェルグの脳裏にあったのは、憎き万夜の将の顔であった。斬るべき敵の顔であった。彼は、はっと息を呑む。目を閉じ、憎しみを一つ、また一つと手放してゆく。代わりに浮かんだのは、おのれをかばって死んだリドの顔。守れなかった妻の、幼子の顔。そして、これから守りうるかもしれぬ、まだ見ぬ人々の顔であった。もう二度と、おれの逸りで誰も死なせはせぬ。


 その静かな心のまま、そっと柄に手をかけると、剣は、はじめから何にも刺さっていなかったかのように、羽のごとく軽々と抜けた。


 堅磐神は、その鞘(さや)を彼に手渡しながら、最後にこう言い遺したという。


 「斬るは末(すえ)ぞ。護るは本(もと)ぞ。この剣、けして折れず、欠けもせぬ。だがそれは、斬るためではない。おまえの後ろの者を護るあいだ、砕けぬためだ。鞘を忘るな。剣よりも鞘こそが、まことの宝ぞ。」


 この日、修羅のヴェルグは死んだ。代わりに生まれたのは、盾のヴェルグと呼ばれる一人の男である。彼はなお万夜と戦いつづけた。だがそれは、もう復讐のためではない。おのれの後ろの、守るべき者の前に、ただ立ちはだかるためであった。その剣は、彼が誰かを庇うかぎり折れず、幾千の刃を受けても欠けなかった。かつて斬れば斬るほど飢えていた男の、あの胸の穴は、いつしか静かに塞がっていた。誰かを護るたびに、少しずつ塞がっていったのである。


 闘争の終わりに近いある日、ヴェルグは逃げ遅れた一群の民を、たった一人、殿(しんがり)を務めて守り抜いた。民はみな逃げおおせ、彼は、その場に力尽きた。人々が後日戻ってみると、彼の姿はどこにもない。ただ、彼が最期に立っていた峠に、鉄色の、一振りの剣のかたちをした大きな岩が、天を突いてそびえていたという。人はそれを、護剣岳(ごけんだけ)と呼ぶ。そして、こうも言い伝える。あの剣は今も岩のなかで、次の一人を待っている、と。恨みのためではなく、ただ誰かを護るために、それを抜かんとする一人を。


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