神統断片拾遺 律天神 オルダ・ヴェム・カノーレ その5
最後に、天律神にまつわる寓話について触れて終わりにしたいと思う。有名なのは千年の闘争のち、妄りに闇界へ立ち入られぬように、反逆神のもとへ誰一人とたどりつかぬように、門に仕掛けたという封印の寓話である。統一神書には記されることはないが、広くあらゆる地域で微細は違えども、似た寓話で語り継がれ、説教にもよく使われている。有名な寓話を集め、それに基づいて地域の風習や文化の違いにいついて考察されたグーテルベルク・サータスシアによる「寓話における地域の風俗と歴史的背景の差異と信仰への影響について」にこの寓話についてよくまとめられている。
まず寓話の話の基本的な筋は次のようなものである。
昔、あるところに、一人の男がいました。男は、大好きな人を、病で亡くしました。悲しくて、悲しくて、どうしても諦められません。そこで男は、決めました。「暗い暗い闇の国へ行って、恐い神様に頼んで、あの人を生き返らせて貰おう。」
男は、暗い道を、どんどん下って行きました。すると、一番奥の大きな門の前に、真っ白い獣の顔をした神様が、大きな秤を持って、座っていました。神様は言いました。「この門を通りたければ、三つの問いに答えなさい。答えが秤と釣り合えば、門は開きます。」
一つめ。「欲しい物を貰うとき、お前は、何を与えますか。」
男は答えました。「何も与えない。ただ、貰うんだ。」
秤は、傾きました。門は、開きませんでした。
二つめ。「死んでしまった人を、お前は、どうしますか。」
男は答えました。「生き返らせる。迎えに来たんだ。」
秤は、傾きました。門は、開きませんでした。
三つめ。「決まりを守らなくてもよい人は、誰ですか。」
男は答えました。「私だ。好きな人のためなら、決まりなんて、どうでもよい。」
秤は、ぐらりと傾きました。門は、とうとう、開きませんでした。
男は、三つとも、間違えました。男は、仕方なく、家へ帰りました。悲しいままでした。けれど、あの門が開かなかったお陰で、男は、してはいけない事を、しないで済んだのです。開けてはいけない門は、開かない方が、よいのです。
この寓話は、その男の答えを逆にすれば、人が守らなければならない律の基本を学べるとなっている。地域により、登場人物や闇界に向かった理由などは様々な語られ方があるが、
根源八法について、それを破らぬよう諭すというのは同じである。グーテルベルク・サータスシア氏は、何が強調されたのか、どういった経緯の人間が寓されたのかを分類し、地域ごとの風俗や慣習の別をありありと説明したのであった。律天神にまつわる寓話は、どれも律を守ることの重要さを伝えるものが多い。またかの神の姿も、厳格に描かれるのが常である。
この律天神の姿と異なる興味深い寓話を1篇見つけた。グラナガダン大図書館の、人の寄りつかぬ書架の隅に、表紙も失せ、虫の食うた、一冊の古き綴りがあり『諸国戯神抄』と題された、いつの世の、いずこの誰が集めたとも知れぬ、諸国の神々の戯れ話を寄せ集めた本であった。そのなかに、律天神を語ったとおぼしき、奇妙な一篇があった。奇妙というのは、そこに描かれたかの神が、あまりに、我らの知る姿と、かけ離れていたからである。
昔、ある村の祭りの日に、どこからともなく、ぼろをまとった、白い顔の、陽気な老爺が、ふらりと現れた。肩には、小さな手秤を一つ、かついでいる。この爺、酒を好み、歌を好み、なにより、賭けごとに目がなかった。誰彼かまわず袖をひいては、さあ、一勝負、と笑い、勝てば手を打って喜び、負ければ、これまた腹をかかえて笑い転げる。まことに、締まりのない神さまであった。
その村には、証文をごまかし、利を吊り上げ、村じゅうから、なけなしの銭を巻き上げてきた、あくどい金貸しがいた。祭りの喧騒のなか、この白爺を見つけた金貸しは、ほくそ笑んだ。よい鴨が来た、と。仕込みの賽ころを懐にしのばせ、金貸しは、爺に、賭けを持ちかけた。爺は、にっこり笑って、応じた。
ところが、である。金貸しが、細工した賽をいくら転がしても、出るのは、きまって、おのれの負ける目ばかり。ありえぬことに、爺の目ばかりが、揃うのである。金貸しは、青くなり、赤くなり、汗みずくで、次々と、いかさまを重ねた。されど、爺は、そのことごとくを、白い顔の、笑いに細めた目の奥から、はじめから、残らず、見通していた。ごまかしの利かぬ相手に、いかさま師ほど、脆いものはない。夜が明けるころには、金貸しは、これまで人から巻き上げた銭のことごとくを、そっくり、爺の前に、積み上げるはめになっていた。
白爺は、涙が出るほど笑ったのち、その山と積まれた銭を、どうしたか。ふところに入れは、しなかった。一枚、また一枚と、村の者へ、投げ返していったのである。それも、でたらめにではない。あの家からは麦二俵ぶん、この後家からは銭五枚、と、金貸しがかつて巻き上げた、そのぴたりの分だけを、狂いなく、めいめいの手へ、返していった。すっからかんになった金貸しだけを、その場に残して。そうして白爺は、からになった手秤を、ひょいと肩にかつぎ、鼻唄まじりに、朝焼けの道を、去っていった。
村の者が、あれはただの飲んだくれの爺ではなかったと気づいたのは、ずっとあとのことである。あの小さな秤。あの白い顔。どんないかさまも、けして通じなかった、あの目。あれこそは、秤の神さまが、玉座の上の、恐ろしい裁き手としてではなく、祭りの片隅の、笑い上戸の爺として、遊びにおいでになった、その姿だったのだ、と。
この一篇を読み終えて、筆者は、しばし、あっけにとられた。酒と歌と博打を好み、勝っては笑い負けては笑う、締まりのない老爺。これが、あの、願いにも涙にも一切ほだされぬ、氷のごとき沈黙の番人と、同じ神であろうか、と。統一神書のかの神と、この白爺とのあいだには、雪と炭ほどの隔たりがある。
されど、幾度か読み返すうちに、筆者は、ふと、思い当たった。いかさまを見通す、あの目。巻き上げられた銭を、一文の狂いもなく、もとの持ち主へ返す、あの手つき。名も姿も、まるで違えど、そのおこないの芯にあるものは、我らの知るかの神の、あの秤と、寸分たがわぬのである。ただ一つ、違うのは、その律を、恐ろしき裁きとしてふるまうか、陽気な遊びとして楽しむか、それだけであった。思えば、いかさまも、えこひいきもなき、まったき公平の勝負とは、それ自体が、寸分の狂いもなく釣り合うた、あの天秤の、もう一つの姿にほかならぬ。まったき公平を、誰よりも愛するこの神が、まったく公平な賭けを、こよなく好んだとしても、なんの不思議があろう。
むろん、これも、一つの戯れ話にすぎぬ。されど、恐ろしき裁きの神を、笑い上戸の爺として語り伝えた、その土地の人々の心を思うと、筆者は、どこか、温かいものを覚えるのである。最も厳格な神を、最も気安い隣人として、祭りの輪のなかへ招き入れる。人の信仰の、そのしたたかな優しさを、この一篇は、こっそりと、教えてくれているように思われてならぬ。




