神統断片拾遺 律天神 オルダ・ヴェム・カノーレ その3
少し話は逸れるが、今の我らの暮らしに、あまりに深く溶け込んでいるが故に、却ってその由来の顧みられぬものがある。欽定緑律教団である。律天神を知る上で、この教団の成り立ちほど、示唆に富むものはない。故に、ここで、いささか筆を割いておきたい。
この教団は、各国の法廷とは、全く独立して存する。いかなる国の権威にも、いかなる者の権力にも、決しておもねらず、ただ、律天神の体現する均衡を、地上に示さんがために、万民へと開かれた、一つの法廷である。国の裁きにも、王の裁可にも、なお承服しがたき不服あるとき、その最後の訴えを受け止めるのが、この教団の開く、神前法廷に他ならぬ。身分の高下も、財の多寡も、ここでは問われぬ。乞食が王を訴えることすら、この法廷では、妨げられぬのである。今でこそ、これは常識であり、誰一人疑う者もない。されど、何ゆえこの一教団が、あらゆる権威と権力を越えて、この世の最後の裁可を、担いうるようになったのであろうか。
教団の創設が、いつであったかは、定かでない。少なくとも、王国歴の定まるよりは古く、されど、かの崩滅の日より前にまでは、遡らぬ頃のことと伝わる。この教団を創めたとされる、聖人キネルークについて記した、教団所蔵の最古の文書を、この度、繙く機会を得た。そこには、次のようにあった。
全てが崩れ去りし崩滅の日ののち、律は乱れ、人は理を忘れ、獣のごとく、力ある者が、ことごとくを奪い、誠実なる無辜の者は、ただ日々に怯えて暮らす他なかった。いずことも知れぬ辺境の寒村に生まれし聖人キネルークは、幼き頃より、律天神の篤き信徒であった。均衡の失われしこの世を憂い、成人するや、すぐに世界を行脚し、行く先々で、律の尊さを、律天神より授けられし根源八法の遵守を、説いて回った。諍いあれば、間に立ちて和解を導き、悪法に虐げらるる者あれば、これを救い、いかなる権力にも、いかなる暴力にも、ついぞ屈することなく、ただひたすらに、律天神の御心に叶うよう、乱れし世を、正していったのである。そのキネルークの行いに深く感化され、律天神の教えに帰依せし一人の王があった。後に天秤王と呼ばるる、バザーランド地方の一国の王、サーネルフォン・クードネラ2世である。この王の支援を得て、ここに、我らが欽定緑律教団は創設された。そして、その創設のみぎり、教団の法として、次の一条が、高らかに定められたのである。
いかなる法も、いかなる権力も、いかなる権威も、律天神の教えたる根源八法に、勝るものはなし。これに反するものあらば、ことごとく、正さるべし。
この一条が掲げられて以降、欽定緑律教団は、根源八法に則り、世の釣り合いを見張る役目を、負うようになった。されど、邪なる者は、いつの世にも絶えぬ。教団のうちにも、僅かながら、その与えられし権をもって、却って律を曲げ、私欲に走る者が、現れた。キネルークは、その撲滅に奔走したが、遂に、根絶するには至らなかった。ようやく、道理なき世に、律を通す兆しが生まれたというのに、他ならぬ己が足元に、律を乱す因がある。これを深く嘆いたキネルークは、身を潔斎し、堂に籠り、世の律を守りえぬ己を諫めて、10日10夜、律天神に、祈り続けたという。
果たして、その祈りは通じた。11日目の朝焼けと共に、キネルークの前に、律天神は、御身を顕したまえり。そして、律を切に守らんとするその心を嘉し、一つの法を、授けたまえり。これぞ、我らが教団の名にも冠せられし、欽定緑律の法である。教団の法廷にて、判決を下す権を持つ者は、必ず、この法を施きたる上で、その決を述べねばならぬ。この法は、その判決が、根源八法に背いておらぬか、且つ、私心なく、公平に量られたか、その一事のみを、明らかにする法である。ひとたびこの法が施かれれば、裁定者、原告、被告、そのことごとくの手に、緑の茨が、浮かび上がる。もし、偽りを述べ、あるいは、守るべき律と法とに背く者あらば、その茨が、立ちどころに戒めを与えるのである。この法は、律天神自らの管りたまうところなれば、法を施くその手続きを偽ることすら、叶わぬ。法を破りし者は、神罰を、その身に受けることとなる。
この法を得て、聖人キネルークは、遂に、後顧の憂いを断った。以来、欽定緑律教団を、遍く世に広め、あらゆる土地で、あらゆる正しからざることを正し、世に、律の調和を、取り戻していったのである。
欽定緑律教団が、今なお、律の最後の守り手として、あらゆる地に、あらゆる世に、揺るがず信を置かれてきたのは、まさに、この欽定緑律の法によるところが、大きい。教団の法廷は、その教義に則り、必ず衆目の中、何ものにも遮られざる場所にて、開かれる。故に、あの裁きを、一度ならず目にした者も、少なくあるまい。裁定者も、原告も、被告も、皆、その身に緑の茨の証を刻まれ、白き貫頭衣ただ一枚を身に纏うて、ことの正否を、律の釣り合いを、あの神前にて、定めるのである。
ただし、一つ、取り違えてはならぬことがある。この法の与うる戒めは、判決の中身、その是非そのものを、裁くものではない。ただ、その裁定が、律を越えてはおらぬか、その過程が、正しく踏まれておるか、それのみを見張る法である。時に、これを思い違え、己こそ正しく、法の方が誤っているのだと、身勝手な思いのままに、この神前法廷へ訴え出て、却って、己の不法の方を、白日の下に暴かるる者が、跡を絶たぬ。これを、よく心に留めておいてほしい。律天神は、慈悲の神ではない。厳格にして、常に変わらぬ律を、守る神である。欽定緑律教団は、その律天神の御心を、今も変わらず、守り続けている。この教団が、世の律の守り人として在り続けていること、それこそが、かの冷たき神の、人の世へ向けたる、ただ一つの、しかし何にも勝る恩寵なのだと、言うべきなのかもしれぬ。




