神統断章拾遺 第1章 創世について
神統断章拾遺 創世について
現代の統一神書で一番普及している、バルギニア版1612年編纂統一神書では創世については次の様に記されている。
はじめ、天も地もなく、昼も夜もなく、ただ果てなき虚空のみが存していた。その虚空 に、ただ一
柱の神がましました。これを始原と称する。何よりも古く、誰に生まれたので もなく、誰が造ったの
でもなく、おのずから在りたもうた。
始原は、永きにわたり、ただひとり在りたもうた。時を刻むものなきがゆえに、その永 さは定かで
はない。やがて始原は、おのれがただ一柱なることを寂しと思し召し、おのれ とは異なる存在を求め
るようになったという。
されど虚空のほかには、生み出すべき材が何ひとつ存しなかった。ゆえに始原は、おの れ自身を材
とし、その御身を引き裂きたもうた。御身は九つに裂け、八つは子となり、一 つは祖そのものとして
残った。身を裂きてなお始原は失せず、分かち与えてなお、今もた だ一柱として在りつづけたもう。
裂けたる八つの欠片より、八柱の神々が生まれ出でた。八柱はおのおの、生まれ落つる その時よ
り、世界のひとつの理を負うていた。
最初に生まれ出でしは、ひとつの大いなる光であった。この光はたちまちふたつに裂け、昼を司
る兄神と、夜を司る弟神となった。次いで、知を司る神、生命を司る神、法を司る神、大地を司る
神、流れと時を司る神、境を司る神が生まれ出でた。あわせて八柱である。
御身を裂きしその裂け目より、おびただしき光が溢れ出でた。これぞ、今に魔力と称さ れるものの
源である。あらゆるものに宿り、火を火とし、水を水とし、人を人たらしむる力は、ことごとくこの
光に発している。
八柱の神々は、おのおのの理に従い、溢れ出でし光を整え、世界の形を成したもうた。大地、海、
空、昼と夜、そして生けるものが、かくて虚空のうちに生じた。これらはみな、始原の御身より分
かたれし、ひとつの光の異なる姿にほかならない。ゆえに小さき石 ひとつ、葉一枚にも、始原の名残
は宿る。
かくして虚空は満たされ、かくして創世はなされたのであった。
この記述は誤りではないが、編纂の果てにいくらか失われた表現や、失伝したものがいくつか確認されている。
まず第一に、始原が「身を九つに裂きたもうた」と記し、一度の業として描く。されど、グラナガダン大図書館に保管されている、王国歴823年にある聖職者が写した写本で蒼背本といわれる神書では、同じ箇所を「八度、裂きたもうた」と書かれている。すなわち一度に九片に割れたのではなく、八回にわたって順に裂いていったというのである。これは、八柱に明確な座次があり、第一から第八までの序列が定まっているのは、生まれが同時ではなく、一柱ずつ順を経たがゆえとするほうが、無理がなく正確であるといえる。
次に始原が自身で身を九つに裂いたとあるが、第一座と第二座の双子神については、一度裂いたのちに、自ずとさらに裂かれ双子神になったと書かれている。これはいったいどういうことであろうか。このときだけ始原は自身で裂いておらず、正確を記するのであれば「七度、裂きたもうた」と書かれるべきであろうが、この矛盾はどう説明できるのであろうか。これに対し、南方サルメア学府の古写本は、この箇所をより精細に記す。曰く、最初にこぼれた欠片は、八つのうち最も大いなるものであり、ひとつの器には収まりきらなかった。ゆえにおのずとふたつに分かれ、昼と夜とを分け合って負った、と。第一の座と第二の座のみが双子である理由を、この写本は欠片の大きさによって説明しており、ただ「裂けた」とのみ記すよりも、事の理にかなっている。逆に蒼背本では、この表記は漏れている。
また始原神が身を裂いたのが、寂しさによるものであるとよく記されるが。全き存在である始原神が寂しさなどという人がごとき思いを持つものなのであろうか。寂しさはそもそもが人がもともと他者とのつながりを求める生き物だからである。集団で支え合って生き延びてきたため、孤立は危険の信号として心に不安を呼び起こす。寂しさとは、誰かと結びつきたいという欲求が満たされていないことを知らせる、自然な心の働きである。だが、寂しさを感じるためには、他者の存在が不可欠であり、1柱で完全な始原神がそのような存在をいつどのように認識し、寂しさを感じるようになるのであろうか。この度、本書の作成に伴い、貴重な崩滅の日より前の神書でカルヴァシュ廃都跡地から出土した封蔵巻物を見ることができ、そこには創世を次にように記してある。
はじめ、始原は欠けるところなき、完き均衡そのものなりき。上も下も、右も 左も、何ひ
とつ傾かぬ、寸分の狂いもなき一なる釣り合いなりき。
されど、完き釣り合いとは、いかなるものよりも脆し。針の先に立つ独楽が、いつまでも倒れずに
はおられぬごとく、あまりに完全なる一は、おのれを一のままに保つこと能わず。
ゆえに、誰が押したるにもあらず、何が触れたるにもあらず、ただ均衡それ自体の堪えがたさによ
りて、始原はおのずと傾きたり。ひとたび傾けば、もはや止まらず。わずかなる歪みは雪崩のごとく
広がり、一なるものは、九つへと裂けゆきたり。
始原を裂きしは、悲しみにもあらず、意志にもあらず。完全なるものが、完全なるまま にはおられ
ぬという、ただひとつの理なりき。世界が一にあらず多なるは、この最初の傾きに始ま
る。
ここには寂しさなどという表現はなく、始原神は自ら身を裂いたのではなく、おのずから裂けたのである。そうであれば、双子神についての古写本の記載は、この本来の表現の残滓のようなものであったといえるのではないだろうか。
いま一つ、見過ごしがたき欠落がある。バルギニア版統一神書は、八柱が世界の形を成したところで筆を擱き、創世を終えたものとする。しかし、始原が万物に名を与えたという段が、そこには一切記されていない。これを単なる省筆と見てよいものであろうか。
貴重な銘肌の民シーデルンの書庫に納められた古き皮銘の写しを見ることができ明らかになったことではあるが、世界の形成に続けて、次の一段が遺されている。曰く、「始原、ひとつひとつのものに名を与えたまふ。空を空と呼び、死を死と呼びて、混じり合いしものを分かちたまへり。されど、おのれの名のみは、与うべき者なくして、ついに無かりき」と。
この段の有無は、軽からぬ意味を持つ。第一に、名づけを創世の一部とするならば、世界の生成は「裂く」「溢れる」のみならず、「分かち名づける」をもって完成すると解されよう。第二に、より重要なことに、始原がなぜ「忘却の祖」「無名の祖」と称されるのか、その由来は、この段なくしては説明がつかぬ。名づけの段を欠くバルギニア版は、いわば結論のみを伝えて、その理を落としているのである。ゆえに筆者は、この一段は本来創世記述に属していたものが、後の編纂において削られたか、あるいは早くに失伝したものと見る。
最後に、始原のその後をめぐる、根深き異同を挙げておく。バルギニア版は、身を裂きてなお「今もただ一柱として在りつづけたもう」と、始原の現存を明言する。これは現行の統一神書に共通する表現である。
しかるに、グラナガダン大図書館の片隅に眠る、いずれの統一にも与せぬ古き民間写本の数本は、これと相容れぬ伝えを残している。曰く、始原は身を裂きしのち、八柱と世界とにおのれのすべてを分かち与え、一柱としてはもはや残らず、万物のうちに溶け入りて在る、と。すなわち、いかなる小石にも葉一枚にも始原は宿るが、どこにも「一柱の始原」はもはやおらぬ、とする汎き在りようである。
現存とするか、消え入りしとするか。これは語の綾ではなく、世界観の岐路である。前者に立てば、始原は今も在す畏るべき一者であり、その眠りや身じろぎへの怖れ、ひいては禁忌の重みが生きてくる。後者に立てば、神とはすでに世界そのものであり、対すべき畏るべき他者はいない。機構公認の神書がこぞって前者を採るのは、果たして本来の伝えゆえか、それとも、畏れと戒めの働く神を要したがゆえの、編纂上の選択ではなかったか。筆者は、ここに、信仰と統治の交わる、編者の手の痕を見るのである。
以上、四つの異同を見てきた。一見ばらばらのこれらの食い違いは、しかし、よく見れば、ひとつの方向を指している。
すなわち現行の統一神書は、いずれの箇所においても、より古く、より捉えがたきものを、人に分かりやすき形へと均しているのである。八度にわたる漸次の裂けは、一度の業へと縮められた。おのずからなる均衡の自壊は、「寂しさ」という人の情へと置き換えられた。おのれを名づけえぬという始原の逆説は、名づけの段もろとも削られた。そして、万物に溶け入りし汎き在りようは、「今も在す一柱」という、畏るべき一者の像へと結ばれ直された。
縮め、なぞらえ、削り、結ぶ。――これらはみな、形なきものに、確かなる輪郭を与えんとする働きにほかならぬ。奇しくもそれは、始原が混沌に名を与え、世界を切り分けたという、かの創世の業と、よく似ている。神書を編むとは、つまるところ、神話を、いま一度、人の手で創世し直すことなのであろう。
されど、創世のたびに、何かは必ずこぼれ落ちる。本書が拾い集めたのは、その、こぼれ落ちたものどもにほかならない。いずれが真の創世なりしか、筆者は断ぜぬ。ただ、均された一つの神書の陰に、均されざる無数の声のありしことを、ここに書き留めておくのである。




