神統断片拾遺 律天神 オルダ・ヴェム・カノーレ その1
次に、第五の座の神について述べる。天秤と律法を司る、律天神オルダ・ヴェム・カノーレ。この神は、叡智神・聖母神のごとく、人に慕われる神ではない。さりとて、反逆神のごとく、忌み嫌わるる神でもない。この神は、ただ、畏れられる。そして、頼られる。八柱のうち、最も冷ややかにして、最も私なき神である。バルギニア版統一神書は、次のように記す。
天秤と律法の番人たる第五の座、世を貫く法則を司る神。始原が御身を裂きたまいしとき、律を負いて生まれ出でたまえる、八柱の第五神である。
その御姿は、人のものにあらず。この神は、獣の面を持ちたもう。真白き毛に覆われた、大いなる獣の頭にして、いかなる獣に似て、いかなる獣とも異なる。その双眸は、決して閉ざされることがない。この眼の前では、いかなる偽りも、いかなる隠し事も、通じぬ。上辺の言葉、繕うた顔、伏せられた罪、そのことごとくを、この神は、見通してしまう。一つの物事の、表も裏も、始めも終わりも、一つ残らず見極めた上で、量りたもうのである。目を覆うて公平を保つのではない。全てを見通すことによって、公平を保つのである。何一つ隠しえぬ者の前では、何人も、己を偽ることが、できぬからである。
その御身は、頭より足の先まで、一切の汚れなき、純白である。白とは、一片の塵も、一滴の汚れも、たちどころに映し出す色。この神が白きは、その前に立つ者の、いかなる小さき曇りをも、隠させぬがためである。御手には、いかなるものをも載せうる、大いなる天秤を提げたもう。これぞ、偏りなき公平の、印である。いま片手には、生きた茨を、ひとむち、握りたもう。秤の傾きを正すための、罰の枝である。
御声は、たかぶらず、へつらわず、脅かさず。ただ、釣り合えるか、釣り合わざるか、その二つを、判詞を読みあぐるがごとくに、告げるのみである。願いに、心を動かされることはない。涙に、ほだされることもない。
御心について、語るべきことは、ほとんどない。何となれば、この神には、怒りもなく、慈悲もないからである。あるのは、ただ一事。釣り合うているか、否か。それのみである。全てを見通す眼をもってしても、この神は、憐れみに傾かず、憤りに傾かず、ただ、見極めたるところを、そのまま量る。賄いも通じず、美貌も効かず、涙も、脅しも、由緒も、一切、この神の秤を傾けえぬ。これを、冷酷と、そしる者もあろう。されど、思い違うてはならぬ。神々の気まぐれにも、強き者の横暴にも、決して傾かぬ秤が、この世にただ一つ在るということ。それは、力なき者、寄る辺なき者にとって、何にも勝る、最後の拠りどころなのである。冷ややかであることが、この神の、最も深き公平なのだ。
御業の第一は、世の根に、その天秤を据えたまいしことである。この秤の上では、貴賤も、真偽も、貸しと借りも、生と死さえも、ことごとくが、釣り合わねばならぬ。そして、心せよ。この律に縛らるるは、人ばかりではない。神々もまた、この秤を、逃れえぬ。己の定めし律に、己が、まず縛らるる。これぞ、この神の、最も尊きところである。
このことを、よく示す語りがある。未だ神々の睦みあいし、遠き世のことである。至天の兄神、天空を司る聖嵐神が、あるとき、その怒りに任せて、罪ある一つの地へ、雷を落としたまえり。されど、その一撃は、あまりに強く、罪なき者どもまでも、罪ある者とともに、灼き尽くしてしもうた。罰が、罪を、遥かに越えてしもうたのである。これもまた、秤の傾きに他ならぬ。第五座の神は、静かに、現れた。八柱の筆頭たる兄神を前にしても、その面に、いささかの遠慮もなかった。ただ、傾いた秤を指し示し、越えたる罰の分を償うべし、と告げたのみである。兄神は、これに一言も返さず、己の過ちを認め、その償いとして自身の雷を律天神に預け、罪が注がれたときに、無事に戻された。八柱の筆頭ですら、この神の秤の前では、一人の科人にすぎぬ。位も、力も、血筋も、この秤を、傾けはせぬのである。
今一つの御業は、世に、揺るがぬ理を通したまいしことである。同じ因より、同じ果の生ること。昨日の火と、今日の火とが、同じく燃ゆること。我らが魔導を、まぐれや奇跡ではなく、学びうる技として修めうるは、ひとえに、この神が、世界に、この揺るがぬ律を敷きたまいしがゆえである。律なくば、世は無秩序に沈み、いかなる約束も、いかなる真理も、立ちようがない。
約定もまた、この神の司るところである。ひとたび交わされし誓いは、目に見えずとも、世の天秤に、一つの重りとして載せられる。これを違うる者、あるいは、非道をもって秤を大きく傾けし者には、やがて、あの茨が、伸びる。地より、音もなく生い出でて、傾きをなせし者の足に、身に、絡みつき、崩れた分の償いを、否応なく、取り立ててゆくのである。約束を守る者が報われ、破る者がいつか躓くと、我らが信じうるのは、この沈黙の天秤が、確かに載せた重りを、決して忘れぬからであり、そして、その茨が、決して枯れぬからである。
この神が、人の世に、直に手を触れたという語りは、多くない。されど、その僅かな一つに、王国歴1305年、市の町ラーメクの、秤役の話がある。この町の市を仕切る秤役ゴルドは、長きにわたり、鉛を仕込んだ偽りの秤を用いて、貧しき者から、目方をごまかし、僅かずつを、掠め取り続けていた。町の代官はこれと通じ、訴える者があっても、握り潰した。ある日、たった一枡の麦を、丸一日分の目方をごまかされて奪われた、一人の後家が、地上のどこにも訴える術なく、町外れの、律天神の古き石の前に、ただ泣きながら、釣り合わぬことを、釣り合わせたまえ、と祈った。
答えは、雷でも、火でもなかった。次の市の日、ゴルドが、いつものように、あの偽りの秤へ、荷を載せた、その刹那。秤の皿より、そして足元の地より、音もなく、茨が伸びた。茨は、みるみるゴルドの手を、足を、絡め捕り、動きを封じた。そればかりではない。全てを見通す神の御業が、ここに、あらわれた。まず、地に転がった、あの偽りの秤の皿が、ひとりでに、ぱくりと割れた。中より、鉛の錘が、一つ、二つと、こぼれ落ちる。長年、目方をごまかしてきた、その仕掛けの、動かぬ証しである。市に居合わせた者らは、思わず、息を呑んだ。だが、それだけでは、終わらなかった。ゴルドの背後、真昼の空に、音もなく、大いなる白き天秤が、浮かび上がったのである。深く傾いた、その一方の皿の上へ、見えざる手が、次々と、載せていく。一粒の麦。二粒の麦。一枚の銭。そして、その傍らの宙には、白き光の文字が、ひとりでに、書き連ねられていった。いつ、どこで、誰から、どれだけを掠め取ったか。「花冠の月、3の日。西の路地の、パン焼きの寡婦より、麦五合」「刈入れの月、9の日。北門の、足萎えの炭焼き職人より、銭三枚」。その一行、一行が、あらわれるたびに、市の者らは、己の名を、隣人の名を、そこに見出し、最初は欺かれていたことに驚き、次に、込み上げる怒りに、拳を握りしめた。三十年にわたる盗みのことごとくが、ただの一件も違わず、白日の下に、書き出されていったのである。隠しおおせたと思うていた罪は、この神の眼の前では、はじめから、隠されてなど、いなかった。
これが、統一神書の伝える、律天神の姿である。真白き獣の面に、全てを見通す眼を湛え、片手に公平の天秤を、片手に罰の茨を提げたる、私なき法の神。愛さるるにはあまりに冷たく、憎まるるにはあまりに公平な、この沈黙の番人を、人は、畏れ、そして、縋ってきた。次節より、いつものごとく、その揺るがぬ秤の、なお語られざる一面を、覗いていきたいと思う。




