神統断片拾遺 聖母神 ラナ・ディル・ジーエーナ その5
聖母神を、生命の母と呼ぶ。まことにそのとおりである。されど、ここでひとつ、素朴な問いが生まれる。生命を生み出したがゆえに、この神は「母」なのだが、では、なにゆえ、生命を生み出したのは、この神ただ一柱きりであったのか。他の神々は、ついに、ひとつの命も、生まなかったのか。その権能は聖母神にのみ限られた話であったのか。
答えは、否である。他の神も生命を生み出す権能を持っていたが、聖母神ほどそれを行使したことが少なく、それぞれの神の使いたる生命を生み出したところで限られていたため、記録少なく、我々人にとって、印象に上がってないに過ぎないのである。
断っておかねばならぬ。ここでいう命とは、眷属のことではない。ヴェルフェンやシーデルンといった七種族は、神がその威光を分かちて引き上げた、いわば神の血族であって、無より生み出されし命とは、別のものである。ここで語るのは、いま神獣・幻獣・聖獣と呼びならわされる、あの尋常ならざる生き物たちのことである。少なき文献より、六柱の神の生みし獣を、拾い上げてみたい。
まず、至天の第一座、聖嵐神。この神の生みし獣は、古き大船長ハーグ・ノルデンの遺せし航海記『北洋航海録』の、時化の日の頁に、こう書きつけられている。
三十七日め。凪、なし。西の空高く、また、あの影あり。我らが「雷鵬」と呼ぶ、翼の巨鳥なり。雲より高きを飛び、地に降りるを、ついぞ見ず。はばたけば風立ち、鳴けば、遠雷、天を渡る。老水夫ら、これを見て、みな掌を合わす。順風の兆しか、嵐の先触れか、いずれとも知れねばなり。ただ祈るのみ。
聖嵐神は世界を見守る目として、「雷鵬」と呼ばれる神鳥を生み出している。羽ばたいて後は、空から降りることなき、空の申し子である。
第三座、叡智神。この神の生みし獣は、いずこの書庫のものとも知れぬ、虫の食うた一冊の獣譜に、辛うじて残る。欠けた頁の、読み取れるところを、そのまま写す。
……瑠璃梟。羽は、深き青。黄昏どきにのみ ■■■■ まことに問いを抱く者の前に、音もなく降り ■■■■ ただ一度、低く鳴く。これを聞きし者、おのが問いの答えを、しらず悟るという。されど、この鳥、答えを授くるにあらず。ひとつの問いを、いま一つ深き問いへと、開いてやるのみ〔以下、頁を欠く〕
叡智神は、人の迷い、悩み、問い立てを導く手助けとして瑠璃梟を生み出したと言われる。戦記や英雄譚、伝記など、英雄が、偉人が、道に迷うとき、それを誤らぬようそっと現れるのがかの梟であり、絵画や挿絵の隅にそっと書かれていることが多く、人知れずされど常に人に寄り添ってくれる心優しき使徒である。
第五座、律天神。この神の生みし獣の名は、辺境カノールの、古き法廷の記録『均衡録』の、ある一件の末尾に、そっと書き添えられている。
右の裁き、下されしその日、法廷の外に、一対の獣、あらわれたり。左と右、寸分たがわぬ双子にして、片方の脚に傷あれば、いま片方の、同じ脚の、同じところに、同じ傷ありき。ただ黙して、罪人のかたわらに立てり。罪人、脂汗を流し、ついにその場に、立ちおおせず。二頭、釣り合いの正さるるを見届けて、いずこへともなく去りぬ。生ける天秤なりと、古老は申す。
かの神の使徒たる獣の記載は驚くほど少ない。見たものやその姿の正確な記載も一様でなく。共通しているのは、一対であるそれのみである。ある記録では、豊かな鬣をたくわえた獅子とあり、ある記録では羽を持つ白き豹ともある。人が出会うこと少なき使徒であるが、必ず過ちが、大罪が犯されるとき現れるという。律天神の神像には、これに倣ってか、必ず何か一対のものを侍らすのが通例となっている。
第六座、堅磐神。この神の生みし、いや、鍛えし獣のことは、山ふところの古き鍛冶の里に伝わる口伝を、ある好事家が写しとった一葉に、こうある。
あれはな、生まれたんでねえ。打たれたんだ。神さまが、炉のかわりの手のなかで、命を、こつこつと、打って成しなすった。鉱の肌の、山みてえな獣よ。「磐獣」と、わしらは呼ぶ。百年に、身じろぎ一つ、するかせぬか。ふだんは、ただの丘さ。この国かの国の霊峰のうち、いくつかは、あの獣が、寝たまんま、山になっちまったもんだと、じいさまは言うておった。
かの神の使徒たる獣は、1体のみよく知られ、我らが見ゆることができる数少ないものである。かの南方の大海にある、ハースランド島という島がそれである。その島には同じなの国が存在し、300年の歴史を紡いでいる。今から186年前に、この島が突如として動いたのであった。長き眠りから覚めた磐獣が、身震いをし、数百里動いたのちに、また眠りについたのであった。それまでは、ただの島としか考えられてなかったのだが、かの磐獣の背であったことがわかったのである。その後、ハースランドのものは、自身らが生まれ育った地をより敬い、かの獣の眠りを妨げることなく、穏やかに過ごせるように、島を守り続けている。あれから50年の周期で磐獣は動き、大海を転々とするようになっているが、かの国の建造物はそれに合わせ、揺れに強く、振り子のようななっていると聞き及ぶ。
第七座、流転神。この神の生みし獣を見たと言い張る者は、みな、深き水より、辛くも生き延びた者ばかりである。ある浜辺の療者が、引き上げられて三日三晩うなされた漁師の、その譫言を書き留めた紙が、残っている。
見た……底で……大きな、透き通った蛇……鱗が、鏡みたいで……一枚、一枚に……おれの、死んだ親父が……まだ生まれてねえ、孫が……ぜんぶ、いっぺんに……見えて……もう、いつが、いつだか……
この先は、字にならなかったという。時を司る神の子は、時の流れそのものを、その身として泳ぐと聞き伝が、これが本当にかの神の使徒であるかどうかは、残念ながら不明である。しかし、流転神の領域である、海の水底に何か計り知れないものがいることは、様々な文献に散見でき、何かを守っているとも、何かを見張っているとも様々ないわれが残っている。
第八座、門守神。この神の生みし獣のことは、とある辻の古き祠に納められていた、名も知れぬ者の覚書の、隅に残る。
黄昏に、また来た。影のない、あの獣。犬とも、鹿ともつかぬ。昼にも、夜中にも、けっして出ぬ。宵と、明け方の、あわいにだけ、そっと立つ。今日は、隣家の爺さまの、枕辺にいた。爺さまが息を引き取ると、寄り添うて、ゆるりと歩きだした。門へ、送っていくのだと。こわい。けれど、あの歩みの静かさに、なぜか、少し、救われる。
門守神の生み出し獣は、そのものを我々は見ることはないが、その存在はある意味では一番よく知られた獣である。人がなくなりしとき、その魂が迷わぬように送り届ける、神の使い。送りしものガーベットと呼ばれるかの存在である。姿定まらぬゆえに、幼子向けのわらべ歌では、ランタンを持った小人とも言われることもあるが、共通して、いつどの時もガーベットという名で、死せる魂を送るものとして描かれる。よく墓守につく一族の名に、かの獣の名があしらわれることが多いのもこれに由来する。
思うに、聖母神が他の神と違うところがあったとすれば、さきに述べた理に基づくのであろう。生命とは、欠けである。そして、真に「欠け」を、すなわち生長と、変化と、終わりとを、その身に負うたのは、第四の座の神、ただ一柱であった。そうであったがゆえに、生みの親である始原神に憐憫の情を覚えれたのである。他の神々は、おのれの司るものより、その一端を、かろうじて命の形にすることはできた。されど、増え、老い、死ぬという、生命のまったき円環までは、ついに与えることができなかったのである。だからこそ、彼らの子は、神獣・幻獣・聖獣という、常世のものとして、増えもせず、絶えもせず、いまも世のはざまに、ぽつりぽつりと、生き残っているだけであり、それは生命の営みというにははなはだ遠いものである。
生命の母が、ただ一柱とされるゆえんは、他の神が生めなかったからではない。他の神も、生めた。ただ、まことに「生かす」ことができたのは、聖母神、ただ一柱きりであった。それが、この神を、母たらしめているのである。




