神統断片拾遺 聖母神 ラナ・ディル・ジーエーナ その3
さて、聖母神について、まず問うておきたいのは、世界そのものを造りたまいしは、始原である,天を、地を、海を、山を、昼と夜とを、あらしめたまいしは、ことごとく始原の御業であったが、なにゆえ、生命だけは、始原みずからの手によらず、その子たる聖母神の手に、委ねられたのであろうか。世界を造りうるほどの始原が、なにゆえ、生命だけは、造らなかったのか。
この問いに、世のおおかたが寄りかかる答えは、例によって、副読本『神統略説』のそれである。曰く、
始原は、世界の骨組みを、すなわち天と地、海と山、昼と夜という、動かぬ枠を、おのが手で据えたまえり。されど、その枠の内を満たす、細やかな個々の働きは、八柱の子らに、ひとつずつ分かちて委ねたまえり。大地は堅磐神に、水と時は流転神に、というがごとくに。生命は、そのうちの、第四の座の神の、分け前であった。ゆえに生命を司るは聖母神であって、始原にあらず。これ、ただの役割の分担にすぎず、ことさら深き謂れなど、ありはせぬ。
なるほど、筋は通っている。世界はあまりに広く、始原ひとりで隅々まで手を入れることはかなわぬ。ゆえに子らに分かち委ねた。生命は、たまたま、聖母神の受け持ちであった。それだけのこと。多くの者は、この答えで、得心する。
されど、筆者は、この「たまたま」「それだけのこと」という、いかにも素っ気ない片付け方に、どうしても、引っかかりを覚えるのである。
第一に、思い出してほしい。さきに引いた統一神書そのものが、生命の創造を、たんなる分担とは、まるで違うふうに語っていた。すなわち、一なりし始原が多に分かれて情を得、安らぎきった世に倦み、わびしさを覚えるにいたったとき、その無聊を慰めんとして、聖母神が、みずから、生命を生み出しはじめたのだ、と。これは、上から割り当てられた役目をこなした、という話ではない。父祖の寂しさを見かねた子が、みずからの意志で、何かを始めた、という話である。分担と、自発とは、似て、まるで非なるものである。
第二に、より深いところで、筆者は、こう疑うのである。始原は、生命を造らなかったのではない。造れなかったのではないか、と。
その手がかりは、かのカルヴァシュ出土の封蔵巻物、現存するうちで最も古き創世の証人の、わずかに読み取れる一行に読み取ったのである。
満てるものは、欠けたるを生まず。
この一行が、筆者には、すべての鍵であるように思われてならぬ。生命とは、いったい、何であるか。それは、突き詰めれば、「欠け」である。腹が減り、渇き、何かを求め、誰かを慕い、足らぬものへと手を伸ばし、そしてついには、死ぬ。生きるとは、絶えず何かを欠き、それを埋めようと動きつづけることであり、その究極のしるしが、死という、永遠の不足である。命あるものは、ことごとく、満たされておらぬからこそ、生きるのである。
翻って、始原とは、何であったか。欠けるところなき、完き一。何ものをも求めず、何ものをも欠かず、それゆえに、情すら持たなかった、満ちたるものである。満ちたるものは、動かぬ枠を、すなわち天地のごとき、それ自身で完結した構造を、いくらでも造りえた。されど、欠けを、渇きを、死を、その本性とする生命だけは、どうしても、造りえなかった。おのれが欠けを知らぬのに、欠けたるものを、どうして生み出せよう。満ちたる者には、生命は、ついに、思い描くことすら、できなかったのである。
現に、始原のうちに、生命につながる最初の動きが芽生えたのは、始原が、おのれを九つに裂き、一であることをやめ、すなわち、みずから「欠け」を負うてからのことであった。多に分かれ、おのれならぬものを持ち、情を得て、はじめて始原は、倦み、わびしさという、ささやかな欠けを知った。されど、それでもなお、始原じしんは、源たる、満ちたるものである。実際に欠けを生み出す業は、その身を欠けによって成す者、すなわち、生長と、変化と、終わりという、不足の理そのものを負うて生まれた、第四の座の神に、委ねるよりほかなかったのである。
とすれば、答えは、こうなる。始原が生命を造らなかったのは、役割を分けたからでも、面倒を厭うたからでもない。満ちたる始原には、欠けたる生命が、造れなかった。ただ、それだけのことである。生命は、欠けた者からしか、生まれえぬ。だからこそ、それは、始原から漏れ出た光を、その身に分かち持つ、欠けたる子らのひとり、聖母神の手に、委ねられねばならなかったのだ。
この見方が正しいならば、ひとつ、恐ろしいことが、見えてくる。人が、生命をみずから生み出さんと
すること、すなわち、あの最も重き禁忌は、たんに神の領分を侵すというにとどまらぬ。それは、世界を造りし始原その者ですら、ついになしえなかった、ただ一つの業に、欠けたる人の身で、手をかけんとすることなのである。母なる神が、人にこの一線だけは越えるなと、かくも固く戒めたまうのも、思えば、道理ではあるまいか。




