神統断片拾遺 叡智神 クロル・ファナ・シーデリ その5
他の神々を論じたときとは、筆者の手つきは、まるで逆であった。かしこでは、敵意ある官製の像を一枚また一枚と剥がし、その下に埋もれた真実を、ようやく探りあてた。ここでは、剥がす要など、どこにもない。むしろ、あふれかえる愛のなかから、どれをすくい、どれを置くか、選ぶことにこそ、骨が折れたほどである。
統一神書が描くのは、一枚の、荘厳な肖像である。中性にして青き、公平にして全知の、真理の神。それは、正しい。正しいが、それきりである。ただ一枚の、動かぬ肖像。
だが、思い返してほしい。本章のなかほどで、我らは、ひとつの古き真実に行きあたった。この神には、もとよりの貌がない。出会う者の心が、その貌をえがく、と。とすれば、人々が祭りに、子守唄に、街道の昔話に、無数の貌を描き添えてきたのは、ただ愛がそうさせたのではない。それは、貌なきこの神が、めいめいの胸に、めいめいの貌で、まことに映ったことの、忠実な証だったのである。子に負けて笑う翁も、揺りかごをのぞく母も、悲しみを引き取る慈母も、椀を分けてもらう旅人も、どれもが、誰かの心が神に与えた、まことの貌であった。
ここに、奇妙な逆転がある。貌をただ一枚に定めた統一神書よりも、定まらぬ無数の貌を描いた歌と祭りのほうが、かえって、貌なきこの神の本性を、正しく写しているのである。一つに描けば、それはもう、無貌ではない。数えきれぬほどに描いて、はじめて、この神は、あるがままに写される。
神が、いかなるものであるかは、統一神書が教えてくれる。だが、神が、我ら一人ひとりにとっていかなるものであるかは、これらの歌と祭りと昔話だけが、教えてくれる。その貌の数の多さこそが、何よりの証なのだ。これほど多くの貌を、これほど多くの胸に宿しえたのは、八柱のうち、それだけ深く広く愛された神を、ほかに知らぬからである。
いつか、あなたが、ふと、青き衣と、一巻の書と、いまにも消えそうな灯を提げた、誰かに出会うことがあるかもしれぬ。それが、いかなる貌をしているかは、筆者には、言えぬ。なぜなら、その貌を選ぶのは、ほかならぬ、その時の、あなたの心だからである。




