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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第95話 ここにあなたの席はありません

「……爽子さんに、どのような過去があったのか」


 テオは静かに口を開いた。


 その声には、少しの迷いもなかった。


「そんなことは、私には関係ありません」


 店内が静まり返る。


 私は顔を上げることができなかった。


 けれど、すぐ目の前にテオが立っていることだけは分かる。


「私は――」


 一度、言葉を切る。


 そして、ゆっくりと私へ振り返った。


「今の爽子さんを、お慕いしています」


「……テオさん」


 胸が大きく鳴った。


 まるで店内にいる全員へ聞かせるような、はっきりとした声だった。


 クローディアが目を見開く。


「な……」


 言葉が出ない。


 私はただ、テオの背中を見つめていた。


 あの日。


 初めて畑を見てもらった時も。


 生姜を一緒に植えた時も。


 病気になったテオを看病した時も。


 収穫祭で冷えた指先に、そっと触れてくれた時も。


 テオはいつだって、私を一人の人間として見てくれていた。


 過去ではなく。


 肩書きでもなく。


 目の前にいる私を。


「爽子さんが作る料理が好きです」


 テオは続ける。


「畑で土に触れている姿も好きです」


「町の人たちの相談に乗っている姿も」


「ヴェダーたちに話しかけている姿も」


 その声は、どんどん優しくなっていく。


「笑っている時の顔も」


「……」


 涙が、ぽろりと頬を伝った。


「私は、そんな今の爽子さんを知っています」


 テオは眼鏡の奥から真っ直ぐ私を見つめた。


「だから、過去を理由にあなたを否定することはありません」


「……テオさん」


「それに」


 ほんの少しだけ、照れたように笑う。


「私が好きになったのは、今ここにいる爽子さんですから」


 胸の奥がいっぱいになった。


 言葉が出ない。


 ただ涙だけが、次から次へと溢れてくる。


 ヴェダーたちも、葉っぱを小さく揺らしていた。


「ヴェダー……」


 シマエナガも窓辺からこちらを見つめ、黒い瞳をぱちぱちと瞬かせている。


 店内にいた町の人たちは、誰も何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は先ほどまでの冷たいものではない。


 誰もが二人を静かに見守っていた。


 私は涙を拭う。


「……私も」


 震える声で呟く。


 テオが目を見開く。


「私も、テオさんといると……嬉しいです」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 顔が熱い。


 きっと耳まで真っ赤になっている。


 それでも、今度は目を逸らさなかった。


 テオはしばらく私を見つめ――。


 ふっと、優しく微笑んだ。


「ふ、ふん! 馬鹿らしい!」


 クローディアは吐き捨てるように言った。


 真っ赤になった顔を隠すようにバッグを掴み、勢いよく立ち上がる。


「クローディア……」


 グリズリー辺境伯が呼び止める。


 けれど、クローディアは振り返らない。


 木のテーブルへバッグをぶつけながら、乱暴に毛皮のコートを羽織る。


「こんな小さな店に、これ以上いる必要なんてありませんわ!」


 コートの襟を整え、御者へ鋭い目配せをする。


 御者は慌てて扉を開けた。


「お帰りになりますか?」


「ええ! 今すぐよ!」


 クローディアは雪の積もった店先へ出る。


 月桂樹のモチーフが輝く黒塗りの豪奢な馬車が、白い雪の中で待っていた。


 その扉へ手を掛ける。


 その時。


「また走るのか?」


「勘弁してくれよ……」


 四頭の馬たちが、ぶるるっと鼻を鳴らした。


「七泊八日の旅の後だぞ」


「今日はもう厩で休みたかったのに」


「人間は元気だなぁ」


 御者が聞こえないふりをして手綱を握る。


「頼むから、もう少し静かにしてくれ」


「俺たちは口が動くんだから仕方ないだろ」


 そんな馬たちの愚痴をよそに、クローディアは馬車へ乗り込んだ。


 けれど。


 その場に一人、取り残された男がいた。


 グリズリー辺境伯だった。


 彼はしばらく店の入口に立ち尽くしていた。


 そして、ゆっくりと爽子へ視線を向ける。


「爽子……」


 懐かしそうに、その名を呼ぶ。


「また、この店に来てもいいか?」


 胸の奥に残る想いを隠せないような声だった。


 私はしばらく黙っていた。


 昔の自分なら。


 きっと嬉しかった。


 熊ちゃんが帰ってきた。


 もう一度会えた。


 そう思って、泣いていたかもしれない。


 けれど。


 今は違う。


 私はゆっくり首を横へ振った。


「……ここに、あなたの席はありません」


 自分でも驚くほど、冷静な声だった。


 グリズリー辺境伯の瞳が揺れる。


「……そうか」


 それだけだった。


 怒ることもなく。


 言い返すこともなく。


 ただ、寂しそうに微笑んだ。


「そうだな」


 小さく呟く。


 そして馬車へ向かう。


 けれど。


 何度も振り返った。


 店の青い屋根。


 木製の看板。


 窓から漏れる温かなランプの灯り。


 そして、その前に立つ爽子。


 その姿を、目に焼き付けるように。


 やがて馬車へ乗り込む。


 ずしり。


 車体が重みで沈み、ギシッと軋んだ。


 御者が扉を閉める。


 ゆっくりと。


 音を立てながら。


 最後に見えたのは、グリズリー辺境伯の横顔だった。


 その目は、まだこちらを見つめていた。


「ハイヤー!」


 御者が手綱を引く。


 パシンッ!


 鞭の音が雪原へ響いた。


 四頭の馬が歩き出す。


「重いなぁ」


「仕方ないだろ」


「早く帰って干し草を食べたい……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、馬たちは白い街道を進んでいく。


 黒塗りの豪奢な馬車が、少しずつ遠ざかる。


 やがて。


 吹雪が強くなった。


 白い雪が視界を覆い、馬車の輪郭がぼんやりと霞んでいく。


 そして――。


 グリズリー辺境伯とクローディアを乗せた馬車は、雪の向こうへ完全に消えていった。


「……終わったんだ」


 私は小さく呟いた。


 胸の奥に、寂しさはあった。


 けれど、それ以上に不思議なほど穏やかな気持ちだった。


「爽子さん」


 背後から声がする。


 振り返る。


 そこにはテオが立っていた。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、優しく私を見つめている。


「寒いですよ」


「……はい」


 私は小さく笑った。


 店の中ではヴェダーたちが葉っぱを揺らしながら、二人を待っている。


 温かなランプの灯り。


 豚骨スープの香り。


 そして、これから始まる新しい日々。


 私はそっと店の扉を閉めた。


 外は雪。


 けれど。


 ヴェダー亭の中は、春のように暖かかった。


お読みいただきありがとうございます


皆様の応援が励みになっています


物語はエピローグへ 長い爽子の旅にお付き合いいただきありがとうございました

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