第96話 異世界北海道、ここが私の居場所です
――半年後。
長い冬を越え、トーカチーに遅い春がやってきた。
雪解け水が白樺林の間を流れ、凍りついていた大地が少しずつ顔を出していく。
朝の空気には、まだ冷たさが残っている。
けれど、風の中には確かな春の匂いが混じっていた。
雪の下で眠っていた草花が、小さな芽を出している。
「春ですね」
私は店の前に立ち、空を見上げた。
青い空。
どこまでも澄み渡った、トーカチーの空だった。
「ええ」
隣にはテオがいる。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、穏やかに細められていた。
「今年は、忙しくなりますよ」
「はい」
私は笑った。
「生姜も白菜も玉ねぎも、たくさん植えないといけませんから」
「歌うトマトもですね」
そして。
私たちは町の小さな教会で結婚式を挙げることになった。
白い花を飾った小さな教会。
町の人たちが総出で準備をしてくれている。
「爽子ちゃん、おめでとう!」
「テオさん、しっかりするんだよ!」
「二人とも幸せにな!」
そんな声が飛び交うたび、私は恥ずかしくて頬を赤くした。
テオも珍しく照れたように眼鏡を何度も押し上げている。
冬の間に、テオとトーカチー公爵との隔たりも少しずつ消えていった。
雪が解けるように。
長い間凍りついていた親子の心も、少しずつ温かさを取り戻していったのだ。
テオは相変わらず農業ギルドで働いている。
農家の相談に乗り、土壌を調べ、作物の育て方を教える。
そして領内の税収管理にも携わるようになった。
農民から必要以上に税を取り立てるのではなく。
その年の収穫量を考え、無理なく暮らしていけるように。
「農家が豊かにならなければ、領地そのものが豊かにはなりませんから」
そう話すテオの姿は、とても誇らしげだった。
そんなテオを、公爵も少しずつ認めるようになった。
一方、レオンは正式に公爵家の爵位を継ぐことが決まった。
まだ若い彼を支えるため、トーカチー公爵はしばらく政務を補佐することになったが、領地の未来は確実に次の世代へと動き始めている。
そしてトーカチーは、大きく変わった。
水車小屋が本格的に稼働し始めた。
デントコーンの粉砕が行われ、コーンスターチが町の新しい産業になった。
小麦の生産も増え、生姜の栽培も広がった。
物流の拠点として多くの荷馬車が行き交い、トーカチーはやがて一大穀倉地帯へと発展していった。
それでも。
ヴェダー亭は変わらない。
朝になれば、チョボたちが鶏小屋から元気な声を上げる。
「コケッ、コッコッ」
「おはよう、チョボ」
木箱を覗くと、今日も生みたての卵が並んでいた。
「ありがとう」
卵を一つずつ籠へ入れる。
その隣では、井戸の精霊が眠そうに顔を出していた。
「おはよう」
「ヒィぃ……」
「ふふ。相変わらずね」
井戸の水は、今日も冷たくて美味しい。
そして、庭へ出る。
「ジュリッ!」
空から大きな影が降りてきた。
シマエナガだ。
あの小さかった白い鳥は、今ではすっかり大きくなった。
羽を広げれば、大人一人を乗せて飛べるほどだ。
「おかえり」
「ジュリッ!」
背中には、二匹のヴェダーが乗っている。
「ヴェダー!」
「ヴェダー!」
畑の上を、シマエナガが大きな羽を羽ばたかせて飛んでいく。
ヴェダーたちは大喜びだ。
葉っぱをぴんと伸ばし、風に揺られている。
「危ないから、ちゃんと掴まってね!」
「ヴェダー!」
今日も畑は賑やかだった。
私とテオは並んで畑へ入り、生姜の苗を一つずつ植えていく。
「もう少し深く」
「こうですか?」
「はい、そのくらいです」
土を掘り、小さな生姜をそっと置く。
上から優しく土をかぶせる。
「今年は去年よりたくさん採れるといいですね」
「きっと大丈夫です」
その時。
「ヴェダー!」
茶色いヴェダーが、短い手で何かを抱えて走ってきた。
茶褐色のペレットだ。
「ありがとう」
畑の土へ混ぜ込む。
茶色いヴェダーが胸を張る。
「ヴェダー!」
「助かるわ」
以前はどうしたらいいのか悩んでいたペレットも、今では大切な有機肥料になった。
土は豊かになり、作物は元気に育っている。
その様子を見ながら、テオが微笑む。
「今年も豊作になりそうですね」
「はい」
私は土を払って立ち上がった。
遠くから教会の鐘が鳴る。
その音に重なるように、店の方から大きな声が聞こえてきた。
「爽子ちゃん!」
「はーい!」
「今日のおすすめはなんだい?」
私は畑から店の方へ振り返る。
店先には、朝から訪れたお客様が何人も並んでいた。
ヴェダーたちも忙しそうに駆け回っている。
私は笑顔で答えた。
「とうもろこしご飯と豚汁です!」
「おお! そりゃ楽しみだ!」
店内から笑い声が起こる。
厨房では寸胴鍋がグツグツと音を立てている。
とうもろこしの甘い香り。
味噌の香り。
豚肉の旨味。
窓から差し込む春の日差し。
テオが私の隣へ並ぶ。
「そろそろ行きましょうか」
「はい」
二人で顔を見合わせる。
そして、ヴェダー亭へ向かって歩き始める。
あの頃。
何も分からない異世界へ突然やってきた私は、ただ一人で途方に暮れていた。
熊ちゃんを探して。
自分の居場所を探して。
泣いた日もあった。
悩んだ日もあった。
それでも。
料理を作った。
畑を耕した。
たくさんの人と出会った。
笑った。
失敗した。
そして――。
大切な人を見つけた。
「爽子さん」
「はい?」
「これからもよろしくお願いします」
テオが照れくさそうに笑う。
「こちらこそ」
私も笑った。
店の扉を開ける。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が響く。
「ヴェダー!」
「ジュリッ!」
今日もヴェダー亭は賑やかだ。
新しい料理。
新しい作物。
新しい出会い。
明日になれば、また何かが変わるかもしれない。
それでも。
この場所で。
この人たちと。
笑って暮らしていけるなら、それでいい。
トーカチーの青空は、今日もどこまでも澄み渡っている。
春の風が白樺の枝を揺らす。
その向こうには、雪解けを終えた広大な大地が広がっていた。
今年もまた、新しい命が芽吹く。
そしてヴェダー亭では今日も。
「いただきます!」
笑顔の一日が、始まるのだった。
(第一部 / 完)
爽子の旅をお読みいただきありがとうございました
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第一部は完結を迎えましたが
いつか番外編などでお会いできれば幸いです




