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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第93話 崩れ落ちる嘘

「クローディア、何をした」


 低い声が、店内に響いた。


 熊ちゃん――グリズリー辺境伯の表情は、これまで見たことがないほど怒りに満ちていた。


 その視線を受け、クローディアの顔が強張る。


「わ……私は……」


 唇が震える。


「私は何もしていません!」


 店内にいた客たちは、固唾を呑んで二人を見つめていた。


 誰も口を挟まない。


 暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜる音だけが聞こえる。


 その時。


 テオがゆっくりと歩み寄った。


 手には、先ほどの木皿。


 その上には白い斑点を持つ毒蛾が乗っている。


 コトン。


 クローディアのテーブルへ木皿が置かれた。


 ヴェダー亭の中が、水を打ったように静かになった。


「クローディア様」


 テオが静かに声を掛ける。


「よろしいでしょうか?」


「な、なんですの?」


 クローディアは不快そうに眉を寄せた。


 テオは銀縁眼鏡の奥から、彼女を真っ直ぐ見つめる。


 そしてフォークの先で、木皿の毒蛾をそっと転がした。


「この毒蛾は、トーカチーには生息していません」


「……」


「失礼ですが、クローディア様はどちらからいらっしゃいましたか?」


「サッポローですけれど……」


 クローディアは怪訝そうに答える。


「それが何か?」


「そうですか」


 テオは頷いた。


「この毒蛾は、サッポロー周辺を中心に繁殖しています」


 店内から、小さなどよめきが起こった。


「じゃあ……」


「サッポローから来たってことか?」


 テオは毒蛾を見つめたまま続ける。


「この時期に、これほど弱った個体が単独でトーカチーまで飛来する可能性は低いでしょう」


「つまり……」


 誰かが呟く。


 テオは答えなかった。


 ただ、静かにクローディアを見た。


 その瞬間。


 ドンッ!


 熊ちゃんがテーブルを叩きつけた。


「クローディア!」


 怒声が店内へ響き渡る。


「爽子に何をした!」


「わ、私は何も……!」


「この毒蛾はどうした!」


「ラーメンの中に……これが……」


 クローディアの声が小さくなる。


 熊ちゃんの手が、テーブルの端を掴む。


 メキメキ。


 木が軋む。


 握り締めた指の関節が白くなる。


「……」


 誰もが息を呑んだ。


 テオはそんな熊ちゃんを一瞥すると、再びクローディアへ向き直った。


「クローディア様」


「……何ですの」


「この毒蛾は、クローディア様がヴェダー亭へ持ち込んだものかもしれません」


「……!」


 クローディアの顔が凍りついた。


「な、何を……」


「毒蛾の羽には、スープ以外のものも付着しています」


 テオは木皿を指先で回す。


「そして先ほどから気になっているのですが――」


 視線をクローディアのバッグへ向ける。


 そこから、白いハンカチが少しだけ覗いていた。


 クローディアは咄嗟にバッグを抱きしめる。


「それは……!」


 熊ちゃんの表情が険しくなる。


「クローディア……」


「知らないわ!」


 クローディアは声を荒らげた。


「私は何も知らない!」


 熊ちゃんの拳が震える。


「お前は……なんてことを!」


「違う!」


 クローディアの目に涙が浮かぶ。


「私はただ……!」


 そこで言葉が途切れた。


 テオは木皿を持ち上げる。


 そして、クローディアの鼻先へ静かに差し出した。


「この毒蛾」


 ほんの少しだけ、口元が微笑む。


「ドレスの月桂樹の刺繍を、寝床と間違えたのかもしれませんね」


「……!」


 クローディアの顔が、みるみる赤く染まっていく。


「この……!」


 怒りに唇を震わせる。


「この平民が何を失礼な!」


 椅子が大きく後ろへ引かれる。


 キィ――。


 その時だった。


 店の入口から、冷たい風が吹き込んだ。


 カラン――。


 扉の鈴が鳴る。


「失礼する」


 低く落ち着いた声。


 全員が入口へ振り返る。


 そこに立っていたのは、二人の男性だった。


 一人は白い雪を肩へ積もらせたトーカチー公爵。


 その隣には、同じように外套へ雪をまとったレオンがいる。


 二人は肩の雪を払いながら、ゆっくりと店内へ入ってきた。


「父上……」


 レオンが呟く。


 公爵は店内を見渡した。


 床に立ち尽くす爽子。


 険しい表情の熊ちゃん。


 顔を赤くしたクローディア。


 そして、テオの手にある木皿。


 その上の毒蛾。


 公爵の眉が、わずかに動いた。


「……これは、どういう騒ぎですかな?」


 その一言で。


 ヴェダー亭の空気は、さらに張り詰めたものへ変わった。


お読みいただきありがとうございます


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