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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第92話 毒蛾の濡れ衣

 ヴェダー亭の中には、重たいざわめきが広がっていた。


「爽子ちゃんが、辺境伯の奥方だったんだって」


「ラーメンの中に虫が入っていたそうだ」


「まさか……」


「気持ち悪い」


 背中越しに聞こえる小さな声。


 ひそひそ。

 ひそひそ。


 その一つひとつが、針のように胸へ刺さってくる。


 私は俯いた。


「私は……」


 震える声を絞り出す。


「嫌がらせで虫を入れたりなんて、しません……」


 誰に向かって言っているのか、自分でも分からなかった。


「熊ちゃ……」


 一瞬、言葉が詰まる。


「……辺境伯のことは、もう終わったことです」


 そう。


 もう終わったこと。


 私はヴェダー亭で、新しい人生を始めた。


 料理を作って。


 畑を耕して。


 町の人たちと笑って。


 テオと一緒に水車小屋のことを考えて。


 それで十分だった。


 なのに。


「おお、恐ろしい!」


 クローディアの声が響く。


「こんな毒蛾をラーメンの中へ入れるなんて!」


「違います!」


 思わず声を上げる。


「私は本当に知りません!」


「では、どうしてラーメンの中にいるのかしら?」


「それは……」


 答えられない。


 クローディアは勝ち誇ったように私を見つめていた。


 その時だった。


「……失礼」


 低い声がした。


 テオだった。


 静かに立ち上がる。


 椅子を引く音だけが、やけに大きく店内へ響いた。


「テオさん……?」


 テオは答えなかった。


 クローディアの前へ歩み寄り、丼の中を覗き込む。


「少し、確認させてください」


「え?」


 テオはテーブルの脇に置かれていたフォークを手に取った。


 そして、豚骨スープの中へそっと差し入れる。


 毒蛾の羽を傷つけないよう慎重に掬い上げる。


「ヒッ!」


 クローディアが小さく悲鳴を上げた。


 テオは気にする様子もなく、そのまま毒蛾を木皿へ移した。


「……」


 店内が静まり返る。


 テオは木皿をランプの下へ持っていった。


 銀縁眼鏡を外す。


 そして、顔を近づける。


「……なるほど」


 触角の形。

 羽の模様。

 白い斑点。

 羽の縁に残った鱗粉。


 テオは農業ギルドで培った知識を総動員するように、じっと観察していた。


「テオさん、何を……」


「少し黙っていてください」


 珍しく強い口調だった。


 私は思わず口を閉じる。


 テオの目が細くなる。


「これは……」


 毒蛾の羽を角度を変えて確認する。


 その時。


 テオの視線が、ふと横へ動いた。


 クローディアの足元。


 椅子の脇に置かれたバッグ。


 そこから、白いハンカチの端がわずかにはみ出している。


「……」


 テオは黙ってハンカチを見つめた。


 そして、もう一度毒蛾を見る。


 羽に付着した鱗粉。


 ハンカチの端。


 何かを確かめるように、テオは眼鏡を掛け直した。


「クローディア様……」


 その声が落ちた瞬間。


 店の外から、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。


 ドドドドドッ!


「な、何だ?」


 客たちが一斉に窓へ振り向く。


 雪を蹴散らしながら、一台の黒い馬車が店の前へ勢いよく止まった。


 馬車の側面には、百合の紋章が象られている。


「……!」


 クローディアの顔色が変わった。


 馬が荒い鼻息を吐く。


 御者が慌てて馬車へ駆け寄り、扉へ手を伸ばす。


 しかし、その前に。


 バンッ!


 扉が勢いよく開いた。


「お客様!」


 御者の声が響く。


 黒い外套を翻し、一人の男が飛び出してきた。


 雪を踏みしめる足音。


 乱れた呼吸。


 そして、店内を見渡す鋭い瞳。


 グリズリー辺境伯――熊一だった。


「……爽子!」


 その声が店内へ響き渡った。


 私は息を呑んだ。


「……熊、ちゃん」


 唇から、無意識にその名が零れた。


 テオが振り返る。


 クローディアも振り返る。


 店内の誰もが、息を潜めて二人を見つめていた。


 熊ちゃんの視線が私を捉える。


 その瞳に浮かんだのは、驚きだった。


 そして――安堵。


 だが、その視線はすぐにテーブルの上へ移った。


 木皿に置かれた毒蛾。


 そして、顔色を変えたクローディア。


 熊ちゃんの眉間に、深い皺が刻まれた。


お読みいただきありがとうございます


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