第89話 招かれざる客
クローディアを乗せた黒塗りの馬車は、吹雪の街道を越え、いくつもの宿場町を経由しながら北へ向かった。
一日目は平野の宿。
二日目は山間の小さな宿屋。
三日目には雪が深くなり、馬車は何度も立ち往生しかけた。
御者は夜明け前から馬へ鞍を付け、雪を払いながら手綱を握る。
四頭の馬は相変わらず文句ばかり言っていた。
「まだ着かないのか?」
「七日も旅なんて聞いてないぞ」
「帰ったら干し草を山盛り頼むからな」
そんな愚痴を零しながらも、一歩一歩雪道を踏みしめて進んでいく。
そして七泊八日の旅路を経て。
ようやく馬車はトーカチー領へ辿り着いた。
白樺林の向こうに、小さな町が見える。
煙突からは白い煙が立ち上り、冬支度を終えた家々が静かに雪へ埋もれていた。
御者は宿屋の前で馬車を止める。
「少々、お待ちくださいませ」
帽子を被り直し、宿屋へ入っていく。
しばらくして主人を連れて戻ってきた。
「ヴェダー亭だったら、椎木が一本立ってるよ」
宿屋の主人は町外れを指差す。
「あの青い屋根の店ですよ」
「ありがとうございます」
御者は再び馬車へ乗り込み、ゆっくりと町を進んでいく。
やがて。
一本の大きな椎木が見えてきた。
その傍らには、青く塗られた屋根の小さな料理店。
木製の看板には可愛らしい文字で、
『ヴェダー亭』
と書かれている。
窓からは温かなランプの灯りが漏れ、白く曇った硝子越しにも店内の賑わいが伝わってきた。
「ここです」
御者は馬車を止め、肩へ積もった雪を払う。
帽子へ積もった雪も軽く叩き落とし、恐る恐る店の戸を開けた。
カラン――。
澄んだ鈴の音が鳴る。
店内は驚くほど暖かかった。
豚骨スープの香り。
焼きたてのパンの匂い。
笑い声。
食器の触れ合う音。
十二席ほどの小さな店は、お客様で賑わっている。
足元では苔色の小さな妖精たちが忙しそうに駆け回っていた。
「ヴェダー!」
「ヴェダー!」
器を運び、布で机を拭き、時折お客様へ手を振っている。
御者は思わず目を丸くした。
「妖精……」
さらに窓辺へ目を向ける。
そこには真っ白で丸々とした巨大なシマエナガが羽繕いをしていた。
艶やかな黒い瞳。
雪のような羽。
御者は息を呑む。
「まさか……森の妖精……」
伝説でしか聞いたことのない存在だった。
店の空気は温かく、不思議と居心地がいい。
そして。
厨房から一人の女性が振り返った。
青いエプロン。
青い三角巾。
笑顔いっぱいにお客様へ料理を運んでいる。
「お待たせしました!」
その笑顔は、冬の寒ささえ忘れさせるほど明るかった。
御者は少し緊張しながら声を掛ける。
「あの……」
爽子はすぐに振り向く。
「はい、いらっしゃいませ!」
「あの……席は空いていますか?」
「はい、大丈夫ですよ」
爽子は店内を見回し、窓際の席を指差した。
「おひとり様ですか?」
「はい、おひとり様です」
その言葉を聞いた瞬間。
「……様?」
爽子は店の外へ目を向けた。
窓越しに見えたのは、黒塗りの豪奢な馬車。
扉には月桂樹の紋章が輝いている。
「辺境伯……熊ちゃん?」
思わず呟いた。
その時。
御者が恭しく馬車の扉を開く。
真っ白な雪の中、一人の女性がゆっくりと姿を現した。
深紅のドレス、黒いレースの月桂樹の刺繍。
白銀の毛皮をあしらった外套。
雪にも負けないほど美しい金色の髪。
凛とした青い瞳。
店内の笑い声が一瞬止まる。
クローディアは静かに店の中へ足を踏み入れた。
その姿を見た爽子は、手にしていた木盆を思わず強く握る。
「……あなたは」
喉が乾く。
胸がざわつく。
クローディアはゆっくりと爽子へ歩み寄った。
その表情は穏やかだった。
けれど、その瞳だけは冬の氷のように冷たい。
やがて爽子の目の前で立ち止まり、小さく微笑んだ。
「お久しぶりね」
一拍置いて、その名を呼ぶ。
「上田爽子さん」
「……あなたは……熊ちゃんの……」
店内の空気が張り詰める。
ヴェダーたちも葉っぱを揺らすのを止め、シマエナガも窓辺から静かに二人を見つめていた。
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