第88話 毒蛾の女
黒塗りの豪奢な馬車には、月桂樹の紋章が美しく象られていた。
吹雪の夜。
御者は肩へ雪を積もらせながら手綱を握り、鞭を鋭く振るう。
「行け!」
パシン、と乾いた音が夜空へ響いた。
四頭立ての馬車は雪を蹴散らしながら街道を駆け抜ける。
「まったく……」
「こんな夜中に叩き起こされるなんて最悪だ」
「厩舎で干し草を食べながら寝ていたかったよ」
馬たちは鼻息を荒くしながら、ぶつぶつと悪態をつく。
「しかも吹雪だぞ」
「蹄まで凍りそうだ」
「あとで人参を二本は貰わないと割に合わない」
文句を言いながらも、四頭は息を合わせて力強く雪道を駆けていった。
車輪は新雪を巻き上げ、白い軌跡を残していく。
◇◇◇
馬車の中では、クローディアが毛皮の外套を胸元まで引き寄せ、小さく身体を丸めていた。
窓の外は吹雪。
ガラスへ雪が激しく叩きつけられている。
暖炉もない車内は冷え切り、吐く息が白く曇った。
クローディアは窓へ映る自分の顔を見つめる。
眉間には深い皺。
唇はきつく結ばれていた。
「許せない……」
ぽつりと呟く。
「あの女だけは」
昼間の光景が何度も脳裏を過ぎる。
ヴェダー亭。
爽子。
夫が一瞬見せた、あの懐かしむような表情。
あの眼差しが忘れられない。
私は妻なのに。
どうして、あの人の心にはまだ別の女性がいるの。
悔しさが胸いっぱいへ広がる。
その時だった。
何かが足元で微かに動いた。
「……?」
視線を落とす。
馬車の床板へ、小さな黒い影が張り付いている。
羽を閉じた一匹の蛾だった。
白い斑点を持つ、不気味な姿。
「ヒッ!」
思わず息を呑む。
越冬し損ねた毒蛾だ。
山地では触れるだけで皮膚が赤く腫れ上がると知られている。
クローディアは咄嗟に足を引いた。
鼓動が速くなる。
逃げたい。
けれど。
蛾は寒さで動けないのか、じっと床へ張り付いたままだった。
「……」
クローディアはその姿を見つめる。
やがて、何かを思いついたように目を細めた。
「そう……」
ゆっくりとバッグを開く。
中から白いレースのハンカチを取り出した。
震える指先で端を摘み、恐る恐る毒蛾へ近づける。
「動かないで……」
息を止める。
そっと。
本当にそっと包み込む。
毒蛾は羽をわずかに震わせただけで抵抗しなかった。
クローディアは慎重に包み終えると、小さく安堵の息を漏らす。
「これで……」
その瞳に、先ほどまでとは違う光が宿る。
冷たく、静かな光。
彼女はハンカチをバッグの奥へしまい込んだ。
そして小窓を静かに開ける。
「御者」
「はい、奥様!」
吹雪の音に負けじと御者が返事をする。
「予定を変更します」
「と申しますと?」
クローディアは窓の外、暗い街道を見つめたまま静かに言った。
「ア・バーシリーへ帰る前に、寄っていただきたい場所があります」
「承知いたしました」
「トーカチーです」
御者は少し驚いたようだった。
「トーカチー、でございますか?」
「ええ」
クローディアはゆっくり頷く。
「ヴェダー亭という料理屋です」
その名を口にした瞬間、馬車の中へ重たい沈黙が落ちた。
外では吹雪が激しさを増し、白い雪が月桂樹の紋章を覆い隠していく。
黒塗りの馬車は進路を変え、深い雪を切り裂くように、静かにトーカチーへの街道を走り始めた。
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