第87話 夫婦の亀裂
領主会議が終わり、宮殿の大広間には再び穏やかな談笑が広がっていた。
各領の領主たちはワイングラスを片手に今年の収穫や冬支度について語り合い、書記官たちは山積みになった羊皮紙を抱えて忙しそうに行き交っている。
そんな中、一人の男性がゆっくりと歩み寄った。
トーカチー公爵だった。
「ア・バーシリー伯、ごきげんよう」
グリズリー辺境伯は振り返り、静かに一礼する。
「これはトーカチー公爵閣下。本日は実に興味深いご報告でした」
「ありがとうございます」
公爵は穏やかに微笑んだ。
その隣では、レオンも一歩前へ出る。
美しい所作で片足を引き、優雅に頭を下げた。
「奥様にはご機嫌麗しゅう」
その視線の先には、深紅のドレスをまとったクローディアが立っていた。
クローディアも完璧なカーテシーで応じる。
「レオン殿下もご壮健そうで何よりです」
社交辞令は実に滑らかだった。
誰が見ても理想的な貴族同士の挨拶。
しかし、その場に流れる空気はどこか張り詰めている。
一通りの挨拶を終えると、トーカチー公爵は柔らかな笑みを浮かべた。
「そういえば」
グリズリー辺境伯へ向き直る。
「ア・バーシリーへお戻りの際には、ぜひ我が領へもお立ち寄りください」
「ほう」
「先ほど報告した料理店があります」
公爵は誇らしげに続けた。
「ヴェダー亭と申します」
その名前を聞いた瞬間だった。
辺境伯の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「料理はもちろん、町の雰囲気も実に素晴らしい。旅人が何日も滞在するほど賑わっております。もし機会がございましたら、ぜひご賞味ください」
「……ありがとうございます」
辺境伯は静かに頷いた。
その返事とは裏腹に、意識は遠くへ飛んでいた。
白いエプロン姿で笑う爽子。
湯気の向こうから、
『いただきます』
と笑っていたあの日。
その笑顔が、どうしても頭から離れない。
「辺境伯?」
公爵の声に我へ返る。
「失礼いたしました」
「いえ」
公爵は気にした様子もなく微笑み、一礼してその場を後にした。
レオンも丁寧に頭を下げ、父の後を追う。
クローディアはその一連のやり取りを無言で見つめていた。
夫の横顔から、一瞬たりとも目を離さずに。
◇◇◇
その夜。
宮殿に用意されたア・バーシリー辺境伯の客室。
暖炉の火だけが静かに揺れていた。
辺境伯は椅子へ腰掛け、ネクタイを緩める。
今日一日の疲れを吐き出すように、小さく息をついた。
その静寂を破るように、背後から鋭い声が飛ぶ。
「まだ考えているの?」
振り向く。
クローディアが腕を組み、冷たい目でこちらを見つめていた。
「何をだ」
「決まっているでしょう!」
声が一段高くなる。
「あの女のことよ!」
辺境伯は静かに目を閉じた。
「……クローディア」
「今日だってそう!」
ソファの上に置かれていたクッションを掴み、そのまま辺境伯へ投げつける。
ぽすっ、と鈍い音を立てて胸へ当たった。
「ヴェダー亭と聞いた途端、あなた顔色が変わったじゃない!」
「違う」
「違わないわ!」
もう一つのクッションが飛ぶ。
「そんなに会いたいなら会えばいいじゃない!」
「落ち着くんだ」
辺境伯は低い声で言う。
「爽子とのことは終わったことだ」
「終わっている?」
クローディアは苦笑した。
その笑みはどこか悲しげでもあった。
「本当にそう思っている人は、あんな顔はしないわ」
部屋に沈黙が落ちる。
暖炉の薪がぱちりと音を立てた。
辺境伯は何も言い返せない。
言葉にすればするほど、嘘になる気がした。
「私は……」
クローディアはゆっくり首を横へ振る。
「もう耐えられない」
机の上の手袋を掴み、毛皮のコートを羽織り、勢いよく扉へ向かう。
「クローディア」
呼び止めても振り返らない。
扉の前で足を止めると、背中を向けたまま言った。
「私は先にア・バーシリーへ帰ります」
「待ってくれ」
「少し、一人になりたいの」
その声だけは怒りではなく、深く傷ついた女性のものだった。
そして。
バタン――。
重い扉が閉まり、静寂だけが部屋に残る。
辺境伯は立ち尽くしたまま動けなかった。
暖炉の炎が揺れ、その橙色の光が床に落ちたクッションを静かに照らしていた。
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傷心のクローディアはどこに向かうのでしょうか
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