第90話 深紅の薔薇が咲く時
「……あなたは、熊ちゃんの……」
声が震えた。
目の前に立っている女性。
深紅のドレス、黒い月桂樹の刺繍。
白銀の毛皮。
冷たいほど整った顔立ち。
間違えるはずがない。
「クローディアよ」
「クローディア……様」
その名前を口にした瞬間、胸の奥がズキリと痛んだ。
熊ちゃんが、私の知らない場所で暮らしていた時の妻。
私とは違う世界で、正式に彼の隣にいた女性。
クローディアは店内をゆっくり見渡した。
「長旅でお腹が空いたの」
そして、まるで何事もなかったかのように微笑む。
「おすすめの豚骨ラーメンを頂けるかしら?」
「……はい」
私は小さく頭を下げた。
「かしこまりました」
胸の奥が苦しい。
それでも私は、いつものように厨房へ向かった。
クローディアは、ヴェダー亭の中に突然咲いた大輪の深紅の薔薇のようだった。
青い屋根の小さな店には、あまりにも華やかすぎる。
その姿を一目見ようと、店の前にはいつの間にか人が集まり始めていた。
「なんだ?」
「どうしたんだ?」
「あんな立派な馬車、見たことないぞ」
「月桂樹の紋章だ……ア・バーシリーの辺境伯じゃないのか?」
雪の積もった道へ人が集まり、小さな窓から店内を覗き込んでいる。
いつもの市場とは違う、妙な緊張感が漂っていた。
そんなことなど気にする様子もなく、クローディアは案内された窓際の席へ腰を下ろした。
スカートの裾を整え、背筋を伸ばす。
優雅な仕草だった。
そして、ふと窓枠へ指を伸ばす。
指先で木の桟を撫でた。
「……随分と素朴なお店ね」
ぽつりと呟く。
その言葉に、私は何も答えなかった。
その時。
「ヴェダー!」
ヴェダーが小さな木桶を抱えて、水を運んできた。
いつものように、短い手で一生懸命にコップを持ち上げている。
「ヴェダー!」
クローディアの前へ水を置こうとした。
けれど。
「……っ」
クローディアは眉をひそめた。
まるで気持ちの悪いものを見るように、手を振ってヴェダーを追い払う。
「ヴェダー……」
小さな葉っぱが、しょんぼりと垂れた。
私は思わず振り返った。
けれど何も言わなかった。
「ヴェダー、こっちへおいで」
小さな声で呼ぶと、ヴェダーはとぼとぼと私の足元へ戻ってくる。
私は頭を一度だけ撫でた。
「大丈夫よ」
そして、厨房へ向き直る。
寸胴鍋の蓋を開ける。
乳白色の豚骨スープから、濃厚な香りが立ち上った。
麺を茹でる。
湯気が厨房いっぱいへ広がる。
チャーシューを切る。
「いただきます」
青ネギを刻む。
いつもと同じ。
何度も繰り返してきた作業。
なのに。
今日は手が重い。
包丁を握る指先に力を込める。
クローディアがいる。
熊ちゃんの妻が、すぐそこにいる。
あの人は、私のことをどう思っているのだろう。
何をしに来たのだろう。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
「爽子さん」
不意に声がした。
厨房の外。
テオだった。
クローディアの隣の席で、いももちを食べている。
けれど、いつものように美味しそうに食べてはいない。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、クローディアの一挙一動に釘付けになっていた。
何者なのか。
なぜここへ来たのか。
そして、なぜ爽子の表情がこれほど硬いのか。
すべてを探るような目だった。
私は一瞬だけテオを見る。
目が合った。
テオは何かを言おうとした。
けれど、口を閉じる。
私は小さく首を横へ振った。
今は料理をする。
それしかできない。
「……よし」
最後にスープを丼へ注ぐ。
乳白色の豚骨スープ。
その上へ艶やかな麺を整え、チャーシューを並べる。
青ネギを散らす。
いつもの豚骨ラーメン。
けれど今日は、いつもとは違う料理に見えた。
私は両手で盆を持ち、クローディアの席へ向かった。
店内の視線が一斉に集まる。
窓の外からも、人々が息を潜めて見つめている。
私はテーブルの前で足を止めた。
「どうぞ……」
声が少し震える。
「お待たせしました」
木のテーブルへ、豚骨ラーメンをそっと置く。
白い湯気が、ふわりと立ち上る。
濃厚な豚骨の香りが、クローディアの前へ広がった。
クローディアはしばらく丼を見つめていた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
深紅のドレスに包まれたその姿と、素朴な土の器。
あまりにも対照的だった。
そして。
クローディアは静かにフォークを手に取った。
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