第85話 テオと収穫祭
十一月下旬――。
空はどこまでも高く澄み渡り、白樺の枝はすっかり葉を落としていた。
雪虫は姿を消え、吐く息は真っ白だ。
今日はトーカチー最後の収穫祭。
冬を迎える前の大市とあって、領内だけでなく近隣の村々からも人が集まり、市場は朝から大変な賑わいを見せていた。
「すごい人ですね」
私は籐籠を抱えながら思わず足を止める。
露店はどこまでも続き、干し魚や干し肉、樽いっぱいの豆、小麦粉、乾燥きのこ、保存用のチーズが山のように積まれている。
冬の間は雪に閉ざされる。
だから皆、この市で一年最後の買い物を済ませるのだ。
「今日を逃すと、春まで手に入りにくい物もありますから」
隣を歩くテオが穏やかに説明した。
「ヴェダー亭の分もたくさん買わないといけませんね」
「はい」
私は指折り数える。
「小麦粉、豆、塩、それから干し肉も欲しいです」
「白菜と玉ねぎの苗も確認しておきましょう」
「春の準備ですね」
二人で顔を見合わせ、小さく笑った。
市場の奥へ進むと、一際長い行列が目に入る。
「わぁ……」
保存用のジャガイモ売り場だった。
大きな麻袋を抱えた人たちが何十人も並んでいる。
「人気ですね」
「冬の命綱ですから」
私たちも列の最後尾へ並んだ。
少しずつ進みながら、周囲を見渡す。
子どもたちは焼き栗を頬張り、大人たちは今年の収穫を語り合っている。
どこからか楽団の演奏も聞こえてきた。
「生姜畑も来年は広くなりますね」
私が言うと、テオは嬉しそうに頷く。
「公爵家の支援もありますし、水車小屋も本格的に動き始めます」
「コーンスターチももっと作れますね」
「ええ」
「白菜も植えたいですし、玉ねぎも増やしたいです」
「輪作も考えましょう」
「畑がもっと広かったら……」
二人でそんな未来の話をしている。
けれど。
私の胸の奥では、別の言葉が何度も繰り返されていた。
『好きな人はいるんですか』
熱で頬を赤くしながら、テオが尋ねたあの日。
私は答えられなかった。
今も答えられない。
熊ちゃんのこと。
離婚したこと。
この世界へ来たこと。
話さなければいけないことが、まだたくさん残っている。
それなのに。
「爽子さん」
テオの声で我に返る。
「はい?」
「……どうしたんですか?」
「え?」
「今日は少し元気がありません」
私は慌てて笑顔を作る。
「そんなことないですよ」
「本当ですか?」
テオは心配そうに覗き込む。
その時だった。
冷たい風が吹き抜ける。
「寒っ」
思わず両手を擦り合わせる。
冬の空気で指先はすっかり冷え切っていた。
「手が冷たいですね」
テオがそっと私の手を見た。
「え?」
次の瞬間。
彼の指先が、私の指先へ静かに触れた。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど。
氷のように冷えていた指先へ、じんわりと温もりが伝わってくる。
「あ……」
心臓が小さく跳ねた。
その温もりは指先だけではなく、腕へ、胸へ、ゆっくりと広がっていく。
私は思わずテオの横顔を見上げた。
眼鏡の奥の優しい瞳。
少し困ったような笑顔。
畑で土を見つめる真剣な横顔。
病気の時に見せた照れた笑顔。
薔薇を差し出してくれた時の少し震えた手。
今までの出来事が次々と思い浮かぶ。
(……あれ?)
胸が苦しい。
でも嫌じゃない。
むしろ、この人の隣は心地いい。
もっと話したい。
もっと笑っていてほしい。
そんな気持ちが、静かに胸の中へ溢れてくる。
(私……)
ようやく気付いた。
私はテオに惹かれている。
一人の男性として。
いつからだろう。
トマト畑で出会った日。
生姜を一緒に植えた日。
風邪を看病した夜。
その一つひとつが積み重なり、いつの間にか特別な存在になっていた。
それでも。
その想いと同じくらい、胸の奥には重たい秘密が残っている。
熊ちゃんのこと。
離婚したこと。
まだ何一つ話せていない。
「爽子さん?」
テオが不思議そうに首を傾げる。
私は慌てて微笑んだ。
「……なんでもありません」
けれど、その笑顔の奥では、自分でもまだ整理しきれない新しい想いが、冬の始まりのように静かに降り積もっていた。
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