第84話 雪虫が舞う窓辺で
十一月――。
朝、店の扉を開けると、小さな白い綿毛が風に乗ってふわりと舞い込んできた。
「雪虫だ」
私は掌を差し出す。
綿毛をまとった小さな虫は、ふわりと指先へ舞い降り、また風に乗って空へ帰っていった。
白樺の梢にも、椎木の枝にも、雪虫が静かに舞っている。
この虫が飛ぶと、もうすぐ雪が降る。
北海道で何度も見てきた、冬の訪れを知らせる小さな使者だ。
「今年も冬が来るのね」
吐く息がほんのり白い。
遠くに広がる十勝平野は、朝霜をまとって銀色に輝いていた。
あと数日もすれば、この景色は真っ白な雪に覆われるだろう。
◇◇◇
昼過ぎ。
ヴェダー亭では暖炉に薪がくべられ、店内はほんのり暖かかった。
窓際の席ではレオンが静かに外を眺めている。
雪虫が風に舞い、白樺並木をゆっくりと流れていく。
「もう冬ですね」
レオンが穏やかに呟いた。
「はい」
私は厨房から顔を出す。
「北海道の冬は長いですよ」
「爽子さんは、雪がお好きですか?」
「好きですよ」
少し笑う。
「寒いですけど、雪景色は綺麗ですから」
レオンも微笑み返した。
◇◇◇
厨房では香ばしい匂いが立ち上っていた。
今日の主役は、朝一番で魚屋から譲ってもらった珍しい魚。
雷鱒。
銀色の鱗が美しく、この季節だけ十勝川を遡上してくる大型の鱒だ。
魚屋のおじさんは誇らしげに話していた。
「飛び跳ねると放電するからなぁ」
「漁師泣かせなんだ」
「ヒグマでさえ近寄らねぇ」
川へ飛び込んだ雷鱒は、青白い火花を散らす。
そのため、この時期になると熊ですら川へ近づかないという。
滅多に市場へ並ばない、貴重な魚だった。
「今日は特別だからね」
私は軽く塩を振り、じっくり炭火で焼き上げる。
皮はぱりっと。
身はふっくら。
脂がじゅわりと浮き始めたところで火から下ろした。
木皿へ盛り付け、レモンによく似た黄色い柑橘を添える。
「お待たせしました」
私はレオンの前へ皿を置いた。
「雷鱒の塩焼きです」
レオンは目を丸くする。
「これは……」
「焼いてありますので大丈夫ですが、少し痺れるのでお気をつけください」
「痺れる?」
「はい」
私は笑う。
「この魚だけなんです」
レオンは興味深そうにナイフを入れた。
白い身がほろりとほぐれる。
一口。
ゆっくり口へ運ぶ。
その瞬間だった。
「……!」
レオンの肩がぴくりと震えた。
「舌が……少しだけ」
「痺れますよね」
「ですが」
もう一口食べる。
ふわりと笑顔になる。
「美味しい」
塩だけの味付けなのに、雷鱒本来の旨味がじんわりと広がる。
後からくる不思議な刺激が癖になりそうだった。
「こんな珍しい魚を……」
レオンは驚いたように私を見る。
「いただいてもよろしいんですか?」
「もちろんです」
私は嬉しそうに頷いた。
「税金の件では、本当にお世話になりましたし、生姜のこともお礼がしたかったんです」
レオンは静かに微笑む。
「爽子さんらしいですね」
その言葉を聞き、少し照れくさくなった。
しばらく雷鱒を味わっていたレオンだったが、不意にナイフとフォークを静かに木のテーブルへ置いた。
表情が少し真面目になる。
「生姜の件ですが」
「はい」
「今度、父と一緒にサッポローで開かれる領主たちの集いへ出席します」
「領主の集い?」
「各地の領主や代官が一年の成果を報告する会です」
私は思わず姿勢を正した。
「そこで」
レオンは穏やかに続ける。
「トーカチーで始まった生姜栽培について報告することになりました」
「そうなんですか?」
「はい」
その碧い瞳が真っ直ぐ私を見る。
「父は、生姜をトーカチーの新しい名産品にしたいと考えています」
私は息を呑んだ。
「そのために、来春から大規模農園を整備する予定です」
「大規模農園……」
胸が高鳴る。
春にテオと植えた、たった三株の生姜。
そこから始まった挑戦が、こんなにも大きく広がろうとしている。
「まだ計画段階ですが」
レオンは微笑む。
「成功すれば、生姜はこの領を代表する作物になります」
私は窓の外へ目を向けた。
雪虫が静かに舞っている。
やがて降る雪の下で畑は眠りにつき、春になればまた新しい芽が顔を出す。
その芽が、町をもっと豊かにしてくれる。
そんな未来を思うと、自然と笑みがこぼれた。
「来年の春が楽しみですね」
「ええ」
レオンも静かに頷く。
窓の外では雪虫が陽の光を受けてきらきらと輝きながら、もうすぐ訪れる白い冬を知らせるように、ゆっくりと十勝の空を舞い続けていた。
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