第82話 公爵様と豚丼
馬車は白樺並木を抜け、ゆるやかな坂を上っていく。
やがて視界が開けた。
「わぁ……」
思わず息を呑む。
目の前に現れたのは、青空へ向かって堂々と建つ白亜の大邸宅だった。
幾本もの円柱が正面玄関を支え、赤銅色の屋根が秋の日差しを受けて輝いている。
庭園には色とりどりの秋薔薇が咲き誇り、噴水の水音が静かに響いていた。
馬車が玄関前で止まる。
御者が扉を開けると、私は緊張で少し震える足を踏み出した。
その瞬間――。
重厚な玄関の扉がゆっくりと左右へ開く。
中から執事やメイドたちがずらりと並び、一斉に頭を下げた。
「上田爽子様、ようこそおいでくださいました」
「ひゃっ……」
思わず小さな声が漏れる。
こんな歓迎を受けるのは初めてだった。
私も慌てて深々と頭を下げる。
「よ、よろしくお願いいたします」
執事長と思われる初老の男性が一歩前へ出る。
「公爵様がお待ちです。こちらへどうぞ」
私は案内されながら屋敷の中へ入った。
大理石の床は鏡のように磨かれ、高い天井には豪華なシャンデリア。
壁には大きな風景画や甲冑が飾られている。
歩くたびに、自分の靴音だけが静かに響いた。
廊下の途中では、料理人たちが慌ただしく行き交っている。
その一角には、大きな保冷箱がいくつも積まれていた。
蓋を開けると、永久凍土が白い霧を立ち上らせている。
その中には美しい霜降りの豚肉。
別の籠には朝採れの青葱や野菜が整然と並べられていた。
「こちらがご用意した食材です」
「ありがとうございます」
ここまで準備してくださったのだ。
自然と背筋が伸びる。
◇◇◇
案内された厨房は、ヴェダー亭の何倍も広かった。
石造りの窯が三つ。
巨大な作業台。
銅鍋や鉄鍋が整然と並び、料理人たちが興味深そうに私を見つめている。
「こちらをご自由にお使いください」
「失礼します」
私は持参した青いエプロンを身につける。
三角巾で髪をまとめると、不思議と気持ちが落ち着いた。
ここはどんな立派な厨房でも、料理を作ることに変わりはない。
「よし」
頬を三回、軽く叩く。
いつもの儀式だ。
「いただきます」
まずは米を研ぐ。
白く濁った水を何度も替えながら、優しく指先で洗う。
釜へ移し、水加減を確かめる。
薪へ火を入れると、ぱちぱちと乾いた音が厨房へ響いた。
その間に豚バラ肉を薄く切り揃える。
熱した鉄鍋へ並べると、脂がじゅわっと溶け始めた。
醤油。
砂糖。
「いただきます」
そして、今年収穫したばかりの生姜をたっぷりとすりおろす。
爽やかな香りが立ち上る。
厨房にいた料理人たちが一斉に顔を上げた。
「これは……」
「薬草では?」
私は木べらで優しく混ぜる。
豚肉へ照りが生まれ、甘辛い香りが辺りへ広がった。
炊き上がった白米を持参した丼へよそう。
「いただきます」
艶やかに光る豚肉を丁寧に並べ、最後に刻み青葱を散らした。
「出来ました」
銀の盆へ豚丼を載せる。
思ったより手が震えていた。
◇◇◇
執事に案内され、長い廊下を歩く。
重厚な扉が静かに開いた。
そこは広々とした食堂だった。
大きな暖炉には火が灯り、窓の外には黄金色の庭園が広がっている。
長い食卓の中央には、一人の男性が座っていた。
五十代半ばほどだろうか。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、堂々とした体格をしている。
隣にはレオンが微笑んで立っていた。
「父上」
「うむ」
公爵は穏やかに頷き、私へ目を向ける。
「あなたが上田爽子殿ですか」
「はい。本日はよろしくお願いいたします」
私は深く頭を下げた。
「どうぞ、お召し上がりください」
銀の盆をそっと卓上へ置く。
丼と銀のフォークを並べる。
公爵はフォークを手に取り、豚肉と白米を一緒に口へ運んだ。
静かな時間が流れる。
一口。
二口。
三口。
そして――。
「これは美味い!」
食堂中へ響くほど大きな声だった。
公爵は目を見開き、もう一口頬張る。
「素晴らしい!」
興奮したように立ち上がる。
「薬草が、こんなにも美味い食べ物になるとは!」
生姜の香りを何度も確かめながら頷く。
「豚肉の甘みを引き立て、脂がまったく重くない!」
「ご飯が止まらん!」
隣でレオンも嬉しそうに笑っていた。
「父上、申し上げた通りでしょう」
「ああ!」
公爵は豪快に笑う。
「爽子殿、この料理は見事だ!」
私は胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます」
公爵は食べ終えた丼を満足そうに眺める。
「この薬草を広めれば、この領はさらに豊かになる」
私はその言葉を聞き、ゆっくり口を開いた。
「実はお願いがあります」
「申してみよ」
「来年、生姜の大量栽培を目指したいと考えています」
公爵は腕を組みながら静かに耳を傾ける。
「薬草としてではなく、食材として育てたいんです」
「なるほど」
「豚丼だけではありません。スープカレーや煮込み料理にも使えます」
「保存も利きますし、町の新しい特産品になると思います」
公爵はしばらく考え込んでいた。
やがて大きく頷く。
「よかろう」
「えっ」
「その計画、我が公爵家も支援しよう」
私は驚いて顔を上げた。
「本当ですか?」
「レオンから、水車やコーンスターチの話も聞いている」
公爵は満足そうに微笑む。
「爽子殿は、この領に新しい実りをもたらしてくれた」
「生姜も必ず実を結ぶだろう」
その力強い言葉に、胸の奥から温かなものが込み上げてくる。
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
来年の春。
生姜畑は、きっと今年よりもっと広くなる。
そんな希望が、晩秋の柔らかな陽射しのように、静かに胸いっぱいへ広がっていった。
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