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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第77話 好きな人はいますか

 長屋の前まで来ると、私は思わず足を止めた。


 木造二階建ての建物は年季が入っていて、夕暮れの橙色の光を浴びながら静かに佇んでいる。


 軒先には洗濯物が風に揺れ、どこかの部屋から夕餉を作る匂いが漂ってきた。


 教えてもらった部屋番号をもう一度確かめる。


「……ここ」


 胸がどきどきと高鳴る。


 仕事以外で、男性の部屋を訪ねるのはいつ以来だろう。


 籠を抱き直し、小さく深呼吸をした。


 コン、コン。


 木戸を遠慮がちに叩く。


「テオさん……爽子です」


 しばらく返事はなかった。


 やっぱり眠っているのだろうか。


 そう思った時だった。


 ゴトッ。


 部屋の奥で椅子を引くような音がした。


 続いて、ゆっくりと近付いてくる足音。


 ガラリ。


 木戸が少しだけ開いた。


「……爽子さん」


 そこには夜着姿のテオが立っていた。


 いつも掛けている銀縁眼鏡はなく、外から差し込む夕陽に目を細めている。


 頬は熱を持って赤く染まり、額には細かな汗が滲んでいた。


 潤んだ瞳はどこかぼんやりとしていて、肩で息をするたび胸元がゆっくり上下している。


「テオさん……」


 思わず声が震えた。


「熱、あるんですね」


「少し……」


 そう答えたものの、声には力がない。


 立っているだけでも辛そうだった。


 私は籠を持つ手に自然と力を込める。


「入ってもいいですか?」


 テオは少し驚いたような顔をしたが、小さく頷いた。


「どうぞ……散らかっていますが」




◇◇◇




 部屋は質素だった。


 木の机が一つ。


 本棚には農業や植物の本が几帳面に並び、小さな窓から秋の夕暮れが差し込んでいる。


 その奥には簡素なベッド。


 それだけだった。


「一人で暮らしているんですね」


「慣れていますから」


 そう言って笑おうとしたが、その笑顔もどこか苦しそうだった。


「まず横になってください」


「ですが……」


「お願いします」


 私が少し強い口調で言うと、テオは素直に頷いた。


 ベッドへ腰を下ろし、そのままゆっくり横になる。


 私は籠から土鍋を取り出した。


「卵粥です」


「わざわざ……」


「熱いうちに召し上がってください」


 木匙でひと口すくい、ふうふうと息を吹きかける。


 部屋いっぱいに卵とお米の優しい香りが広がった。


「どうぞ」


 テオはゆっくり体を起こし、一口食べる。


 しばらく静かに味わっていた。


「……美味しいです」


 その一言に、私は胸を撫で下ろした。


「良かった」


 土鍋の半分ほど食べ終えると、再び横になった。


 呼吸はまだ少し荒い。


 私は井戸水を入れた桶へ布を浸し、固く絞る。


 この井戸に精霊はいなかった。


「失礼します」


 額へそっと乗せる。


「冷たい……」


 少しだけ表情が和らいだ。


 私はベッドの脇へ腰掛ける。


 部屋には静かな時間だけが流れていた。


 窓の外では、秋風が木々を揺らしている。


 その時だった。


 そっと。


 私の手首へ温かなものが触れた。


「……!」


 見ると、テオが私の手首を弱々しく握っていた。


 熱のせいか、その手は少し熱い。


 私は驚いて顔を上げる。


 テオは薄く目を開け、潤んだ瞳で私を見つめていた。


「爽子さん……」


「はい」


 掠れた声が静かな部屋に響く。


「好きな人は……いるんですか?」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。


 私は返事ができなかった。


 視線だけが静かに逸れていく。


 窓の外。


 夕焼けに染まる白樺。


 揺れる木の葉。


 熊ちゃんの笑顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


 あの人は、もう過去の人。


 そう何度も自分に言い聞かせてきた。


 けれど、離婚したことも、この世界へ来る前のことも、まだ何一つテオには話せていない。


 この優しい人へ、嘘をついたまま答えることはできなかった。


 部屋には沈黙だけが流れる。


 テオは急かさなかった。


 私の返事を、ただ静かに待っている。


 私はゆっくり息を吸い、小さく微笑んだ。


「今はまだ……」


 言葉を選ぶように続ける。


「お店のことしか考えられないんです」


 テオはしばらく私を見つめていた。


 やがて、少し寂しそうに、それでもどこか安心したように微笑む。


「……そうですか」


 握っていた手がゆっくりと離れた。


「ごめんなさい。変なことを聞いてしまいました」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


 本当は違う。


 答えられない理由がある。


 そのことを話さなければならない。


 そう思うほど、言葉は喉の奥で重く沈んでしまう。


 テオは静かに目を閉じた。


 熱に疲れたのだろう。


 規則正しい寝息が少しずつ聞こえ始める。


 私は眠る横顔を見つめながら、そっと額の布を取り替えた。


「……早く元気になってくださいね」


 小さな独り言は、秋の夕暮れに静かに溶けていった。


お読みいただきありがとうございます


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