第76話 テオと白菜と流行病
やがて十月、朝晩の風がぐっと冷たくなってきた。
白樺の葉は黄金色に色づき、店の前の椎木からも、はらはらと落ち葉が舞い始める。
ヴェダー亭の裏庭では、トマトの収穫もひと段落した。
赤く実った最後の一粒を籠へ入れながら、私は空になった畑を眺める。
「次は何を植えようかな」
秋から冬へ向かうこの季節。
北海道なら、これから恋しくなる野菜がある。
「白菜……」
鍋料理には欠かせない野菜。
豚肉との相性も抜群だ。
八月下旬に苗を植え、十一月頃に収穫するのが理想だと、あちらの世界では教わった。
「少し遅いけど……」
私は畑へしゃがみ込む。
黒々とした土はふかふかとして柔らかい。
茶色いヴェダーのペレットを混ぜ続けたおかげで、畑は見違えるほど肥沃になっていた。
土を握ると、ほろりと崩れる。
ミミズも元気に顔を出している。
「この土なら、もしかしたら育つかもしれない」
けれど、思いつきだけで植えて失敗するわけにはいかない。
「……テオさんに相談してみよう」
私はエプロンを外し、籐の籠を片手に市場へ向かった。
◇◇◇
市場は今日も活気に満ちていた。
焼き栗の甘い香り。
焼き魚の煙。
露店から聞こえる威勢のいい呼び声。
「爽子ちゃん!」
八百屋のおばちゃんが笑顔で手を振る。
「こんにちは!」
「今日は買い物かい?」
「ちょっとギルドまで」
「そうかい」
市場を抜けると、人通りは少なくなる。
石畳の坂道を上ると、蔦の葉が壁一面に絡まる石造りの建物が見えてきた。
農業ギルド。
木製の看板が風に揺れている。
私は扉を開けた。
「こんにちは」
受付では見慣れない若い女性が帳簿を整理していた。
「あの……テオさんはいらっしゃいますか?」
女性は顔を上げ、小さく首を振る。
「テオさんでしたら、お休みです」
「お休み?」
思わず聞き返した。
「二日前から流行病にかかってしまって」
「えっ……!」
胸がどきりと鳴る。
「熱が高くて、しばらく静養するよう言われています」
「そんな……」
私は何も知らなかった。
ここ数日、店が忙しく、市場で会うこともなかった。
仕事熱心なテオさんだから、てっきりギルドで忙しくしているものだと思っていた。
「ご家族の方が看病を?」
女性は少し困ったように笑う。
「いえ、テオさんは一人暮らしなんです」
「一人……」
「近くの長屋で暮らしています」
その言葉を聞いた瞬間、私は頭を下げていた。
「ありがとうございました!」
そのまま駆け出す。
◇◇◇
「ただいま!」
勢いよくヴェダー亭の扉を開ける。
ヴェダーたちが驚いて葉っぱをぴんと立てた。
「ヴェダー!?」
「ごめんね、急ぐの!」
チョボたちの鶏小屋へ向かう。
「チョボ!」
「コケッ」
今日産んだばかりの白い卵が三つ。
まだほんのり温かい。
「ありがとう」
大事そうに抱えて厨房へ戻る。
土鍋へ米とたっぷりの水を入れ、ゆっくり火にかける。
ことこと。
ことこと。
米が花のように開いていく。
そこへ溶き卵を細く流し入れた。
ふわり。
黄色い卵が白い粥へ優しく広がる。
ほんの少しだけ岩塩を加え、最後に刻み葱を散らした。
「これなら食べられるよね」
風邪をひいた時、熊ちゃんにも作ったことがある。
何も食べられない日でも、卵粥だけは「うまい」と笑ってくれた。
その記憶が一瞬よみがえった。
私は小さく首を振る。
「今はテオさん」
熱いうちに届けなくちゃ。
土鍋を厚い布で包み、籐の籠へそっと入れる。
木匙も添えた。
「ヴェダー、お留守番お願いね」
「ヴェダー!」
八匹が元気よく葉っぱを振る。
シマエナガも、
「ジュリッ!」
と窓辺から見送ってくれた。
私は籠を胸に抱え、夕暮れの石畳を急ぐ。
市場を抜け、教会の鐘を背にして細い路地へ入る。
洗濯物が揺れる長屋が並び、その一角にテオの住む小さな部屋があると教えられた。
胸の鼓動が少しずつ速くなる。
風邪はひどくないだろうか。
一人で苦しんでいないだろうか。
籠を抱く手に自然と力が入った。
私は静かに、長屋の木戸の前へ立った。
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