第71話 深紅の薔薇を抱いたテオ
窯の中では薪がパチパチと音を立てて燃えている。
私は大きな寸胴鍋の前に立ち、木べらでゆっくりと鍋をかき混ぜた。
「いただきます」
飴色になるまで炒めた玉ねぎ。
手羽先。
人参。
大きめに切ったジャガイモ。
スイートコーン。
そこへ昨夜から煮込んでいた鶏のスープを静かに注ぐ。
コポコポ……。
湯気とともに甘い野菜の香りが立ち上った。
「よし」
今日は、この世界で初めてのスープカレー。
異世界にはカレーという料理そのものが存在しない。
香辛料は薬草として扱われ、料理へ使う文化はほとんどない。
だからこそ、この香りだけでも驚くだろう。
小皿へ香辛料を並べる。
黒胡椒。
火山唐辛子。
山うこん。
月桂樹。
それぞれを石臼で細かく挽き、木のボウルで混ぜ合わせる。
鼻をくすぐる刺激的な香りに、思わずくしゃみが出た。
「くしゅん!」
「ヴェダー!」
八匹のヴェダーたちが一斉に葉っぱを揺らして笑う。
「もう、笑わないの」
私も思わず笑ってしまう。
鍋へ香辛料を少しずつ加える。
ジュワッ。
今まで嗅いだことのない複雑で奥深い香りが、ヴェダー亭いっぱいに広がっていく。
「わぁ……」
自分でも思わず声が漏れた。
札幌で何度も食べ歩いたスープカレー。
熊ちゃんと休日に並んで食べた行列店。
店ごとに違う香り。
違う辛さ。
違うスープ。
あの記憶を頼りに、私は木べらを動かし続ける。
「もう少しかな」
野菜が煮崩れないように火加減を弱める。
手羽先も箸で持ち上げると、ほろりと骨から身が離れそうだった。
その時だった。
カラン。
店の扉につけた小さな鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ」
振り向くと、扉の前にはテオが立っていた。
「こんにちは」
「テオさん!」
けれど今日は様子が少し違う。
いつもの麻袋も書類も持っていない。
両手で何かを大事そうに抱えている。
「どうしました?」
テオは少し俯いたまま、ゆっくり近付いてきた。
銀縁眼鏡の奥の瞳がどこか落ち着かない。
「その……」
言葉を探すように一度息をつく。
「市場で……見つけまして」
紙をそっと開いた。
中から現れたのは、一輪の深紅の薔薇だった。
美しい花弁が、窓から差し込む陽射しを受けて輝いている。
「さ……爽子さんに」
「……えっ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
テオは照れくさそうに耳を赤くしながら、薔薇をおずおずと差し出す。
「いつも……美味しい料理をありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だったようだ。
私は慌てて両手で受け取る。
「わぁ……」
深紅の花が手の中でふわりと揺れた。
「綺麗……」
自然と笑みがこぼれる。
「ありがとうございます」
胸の奥がじんわりと温かくなる。
花を贈られたのは、いつ以来だろう。
熊ちゃんと結婚していた頃も、記念日に花束をもらったことはほとんどなかった。
その温もりが嬉しい。
嬉しいのに。
胸のどこかが、チクリと痛んだ。
(私……)
薔薇を見つめる。
(まだ言ってない)
テオさんには。
レオンさんにも。
町の人たちにも。
私は離婚していること。
熊ちゃんという夫がいたこと。
今は別々の人生を歩いていること。
誰にも話していない。
隠そうと思っていたわけではない。
話すきっかけが、なかっただけ。
けれど。
こうして真っ直ぐな好意を向けられるほど、そのことが心に引っかかる。
(……私、ずるいよね)
花を抱きしめる手に少しだけ力が入った。
もし、この人が私の過去を知ったら。
離婚歴があると知ったら。
今と同じように笑ってくれるだろうか。
不安が胸をよぎる。
「爽子さん?」
テオが心配そうに顔を覗き込む。
「……あっ」
私は慌てて笑顔を作った。
「ご、ごめんなさい。嬉しくて、ちょっとびっくりしちゃって」
「そうですか」
テオはほっと胸を撫で下ろした。
「花屋のおばあさんが、この薔薇が一番綺麗だと勧めてくださって」
「本当に綺麗です」
私は店の窓辺へ小さなガラス瓶を置き、井戸の水を注ぐ。
その中へ薔薇をそっと活けた。
深紅の花は午後の光を浴び、店の中を明るく彩っている。
「ヴェダー!」
八匹のヴェダーたちも葉っぱを揺らしながら、その花を囲むように飛び跳ねた。
「似合いますね」
テオがぽつりと呟く。
「え?」
「この店に、とても」
照れ隠しのように眼鏡を押し上げる。
私は窓辺の薔薇を見つめ、小さく微笑んだ。
「大切にします」
その笑顔を見たテオも、ようやく安心したように微笑み返した。
けれど私の胸の奥には、小さな棘が一本だけ残ったままだった。
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