第70話 教会の鐘を待ち侘びて
ギルドの執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
窓から差し込む昼前の陽射しが木製の机を照らし、積み上げられた書類の影を長く伸ばしている。
テオは銀縁眼鏡を指先で押し上げながら、一枚一枚報告書へ目を通していた。
「東地区、小麦収穫量……前年比一二パーセント増」
羽根ペンを走らせる。
さらさら。
さらさら。
書類へ署名を終え、隣の山へ移す。
次は水車小屋の工事報告。
続いて薬草園から届いた生姜の栽培記録。
「順調ですね」
小さく呟き、机の端へ積み重ねた。
ふと視線が壁に掛けられた時計へ向く。
まだ十一時二十分。
「……まだですね」
再び書類へ目を落とす。
けれど数分後には、また時計を見てしまう。
十一時二十七分。
十一時三十四分。
十一時四十一分。
今日は妙に針の進みが遅い。
羽根ペンを持つ手が止まり、思わず窓の外を眺める。
白樺の葉が風に揺れていた。
今頃、爽子さんは何を作っているのだろう。
昨日、市場で香辛料を買っていた。
また新しい料理が出来上がるのかもしれない。
そう考えるだけで自然と口元が緩む。
「……テオ君」
向かいの机から声が飛んできた。
顔を上げると、年配の職員が肩を揺らして笑っている。
「今日は時計ばかり見てるな」
「え?」
慌てて背筋を伸ばす。
「い、いえ」
「昼が待ち遠しいなんて珍しいじゃないか」
「そんなことは……」
否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
ちょうどその時だった。
カーン。
教会の鐘が町へ響き渡る。
十二時を知らせる音。
テオは反射的に立ち上がっていた。
「あ……」
自分でも驚くほど素早かった。
周囲の職員たちが一斉にこちらを見る。
「ははは!」
一人が声を上げた。
「昼飯も食べず仕事ばかりしていたテオ君が、最近じゃ食堂通いか」
「しかも毎日」
「ずいぶん変わったもんだ」
執務室に笑い声が広がる。
テオの耳がみるみる赤くなった。
「ち、違います」
「何が違うんだ?」
「仕事の確認を……」
「ヴェダー亭でか?」
「…………」
返事に詰まる。
さらに笑いが起こった。
「いいじゃないか」
「若いってことだ」
「美味い飯は仕事の活力だからな」
テオは照れくさそうに咳払いを一つすると、書類を丁寧に揃えた。
「午後までには戻ります」
「行ってらっしゃい」
「今日は何をご馳走してもらうんだ?」
「…………」
答えずに帽子を被る。
けれど口元だけは少し緩んでいた。
◇◇◇
ギルドを出ると、夏の終わりの風が頬を撫でた。
石畳の道には露店が並び、人々の笑い声があふれている。
パン屋からは焼きたての匂い。
肉屋では主人が豪快に骨付き肉を切っていた。
八百屋のおばちゃんが手を振る。
「テオさん、こんにちは!」
「こんにちは」
自然と足がヴェダー亭へ向かう。
その途中だった。
一軒の花屋の前で、ふと足が止まる。
木製の桶には色とりどりの花が並んでいた。
白い百合。
青いデルフィニウム。
黄色い向日葵。
そして、一輪だけ美しく咲いた深紅の薔薇。
「いらっしゃい」
花屋のおばあさんが優しく笑う。
「どなたかに贈り物かい?」
「え……」
テオは少し慌てた。
「い、いえ……その」
視線は自然と薔薇へ向かう。
鮮やかな赤い花弁。
朝露をまとったように美しい。
「綺麗ですね」
「今朝咲いたばかりさ」
おばあさんはそっと薔薇を持ち上げた。
「一本だけでも花は喜ぶよ」
テオはしばらく迷っていた。
こんなものを渡したら困らせてしまうだろうか。
いや、開店祝いでも誕生日でもない。
理由もなく花を贈るなんて。
けれど──。
爽子さんの笑顔が頭に浮かぶ。エプロン姿で「ありがとうございます」と笑う姿が。
気がつけば財布を取り出していた。
「……その薔薇を一本ください」
「はいよ」
紙で丁寧に包まれた薔薇を受け取る。
どこか照れくさくて、落とさないようにそっと胸元へ抱えた。
「ありがとう」
花屋をあとにしたテオは、小さく息を吸う。
ヴェダー亭まで、あと少し。
胸の鼓動だけが、教会の鐘よりも少しだけ速く鳴っていた。
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