第66話 テオさん、優しいよ?
次は何を作ろうか。
店の掃除を終え、カウンターに頬杖をついて考える。
ヴェダー亭の定番料理は豚骨ラーメン。
ミネストローネに、トマト料理、いももち、かき揚げ。
少しずつメニューも増えてきた。
けれど、まだ足りない。
「……そうだ」
頭の中に、サクッという軽やかな音が浮かんだ。
「トンカツを作ろう」
揚げたての衣。
柔らかな豚ヒレ肉。
噛めば肉汁がじゅわっと溢れ、ご飯が何杯でも食べられる。
「卵はチョボからもらって、パン粉は昨日の残りのパンを削ろう」
「ヴェダー!」
ヴェダーたちは葉っぱを揺らして賛成した。
コーンスターチも十分ある。
小麦粉と合わせれば、きっと軽い衣になる。
「よし、市場に行こう」
◇◇◇
昼前の市場は今日も賑やかだった。
十勝川から吹く風に色とりどりの旗が揺れ、焼きたてのソーセージの香りが食欲を誘う。
大道芸人の周りでは子どもたちが歓声を上げ、荷馬車が行き交っている。
私は籐の籠を片手に歩き出した。
最初に向かったのは肉屋だった。
「こんにちは」
「おっ、爽子ちゃん!」
顔馴染みになった肉屋の主人が笑顔で迎えてくれる。
「今日は何にする?」
「豚のヒレ肉ありますか?」
「あるとも」
主人は奥から綺麗な赤身肉を持ってきた。
脂は少なく、きめ細かい。
「今朝締めたばかりだ」
「ありがとうございます」
「また新しい料理かい?」
「はい」
主人は腕を組んで笑った。
「爽子ちゃんが来るたび、新しい料理が生まれるなぁ」
「まだまだ作りたいものがたくさんあるんです」
「楽しみにしてるよ」
私はヒレ肉を籠へ入れ、次は粉屋へ向かった。
◇◇◇
市場の奥にある粉屋は、小麦の香りが漂う優しい店だった。
棚には小麦粉とライ麦粉が並んでいる。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
店番のおばさんが顔を上げるなり、目を細めた。
「あら、爽子ちゃん」
「小麦粉をください」
「どれくらい?」
「この袋いっぱいお願いします」
私は大きな麻袋を手渡した。
「はいはい」
麻袋へ粉を量りながら、おばさんはにこにこと笑っている。
「最近、テオさんといい感じだねぇ」
「えっ?」
思わず声が裏返った。
「そ、そう見えます?」
「だって、よく一緒に市場を歩いてるじゃない」
「相談に乗ってもらってるだけですよ」
「またまた」
おばさんは肩を揺らして笑う。
「真面目なテオさんが、あんなに笑うようになったの初めて見たもの」
私は照れ隠しにワンピースの紐を結び始めた。
「そんなこと……」
その時だった。
店の奥で小麦袋を運んでいた、小さな男の子がひょこっと顔を出した。
「ねぇねぇ」
「ん?」
無邪気な瞳が私を見上げる。
「けっこんするの?」
その一言で、店の中がしんと静かになった。
「えっ……」
頬が熱くなる。
「そ、そんなこと……」
言葉が続かなかった。
男の子は首を傾げる。
「テオさん、やさしいよ?」
「う、うん」
「おねえちゃんもやさしいし」
無邪気な笑顔だった。
悪気なんて一つもない。
だからこそ胸が少し痛んだ。
私は一度、結婚している。
熊ちゃんと笑い合い、小さなラーメン屋を営み、そして別れた。
離婚した自分が、新しい幸せを望んでいいのだろうか。
そんな思いが胸の奥から静かに湧き上がる。
思わず視線を落とした。
「……私はね」
小さく笑う。
「少しだけ、お姉さんなの」
それだけしか言えなかった。
粉屋のおばさんは、そんな私を見て優しく微笑む。
「人生はいろいろあるさ」
量り終えた小麦粉を手渡してくれる。
「でもね」
私の手をぽんと軽く叩いた。
「今、爽子ちゃんが毎日楽しそうに笑ってる。それが一番大事だよ」
その言葉が胸へじんわりと染み込んだ。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げる。
店を出ると、夏風が頬を優しく撫でた。
青空には白い雲。
市場の喧騒。
遠くでは水車がゆっくりと回る音が聞こえる。
私は籠の中の豚ヒレ肉と小麦粉を見つめ、小さく息を吐いた。
「……まずは美味しいトンカツを作ろう」
それが今の私にできること。
そう思うと、自然と足取りは軽くなっていた。
ヴェダー亭では、きっとヴェダーたちが葉っぱを揺らしながら帰りを待っている。
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