第45話 閉店後のひと時
夕日が西の地平線へ沈み、仄かなランプの灯りが店内をやさしく照らしていた。
昼間まで賑やかだったヴェダー亭も、今はすっかり静かになっている。
聞こえるのは、水桶で食器を洗う音と、薪がぱちりとはぜる音だけだった。
テオが空になった丼を運び、私が受け取って洗う。
閉店したテーブルの上には、飲みかけの水のコップと、使い終わったフォークが雑然と置かれていた。
「ヴェダー!」
ヴェダーたちは葉っぱを揺らしながら、コップを運んだり、布でテーブルを拭いたり、椅子をきちんと並べたりしている。
一匹は背伸びをしても届かず、ぴょんぴょん跳ねながら机を拭いていた。
「ふふっ」
思わず笑う。
「そこは私がやるから」
「ヴェダー!」
それでも嬉しそうに布を抱えている。
テオは銀縁眼鏡の奥で穏やかに微笑みながら、丼を手際よく運んできた。
「ありがとうございます」
「いえ、私が手伝いたいので」
土で畑を耕す人とは思えないほど、食器の扱いが丁寧だ。
「ありがとうございます」
受け取った丼を洗い、水気を拭き取って棚へ戻す。
焼き上がったばかりのラーメン丼は、一つも欠けることなく並んでいた。
「今日は何杯くらい作ったんですか?」
テオが尋ねる。
「えっと……」
私は指を折って数える。
「三十二杯かな」
「三十二杯ですか」
少し目を丸くする。
「昨日より増えましたね」
「そうなの」
私も驚いて笑った。
「麺を打つのが追いつかなくて大変だったよ」
「昨夜からずっとでしたもんね」
「うん」
昨日の深夜から小麦をこねて。
麺を切って。
スープを温めて。
気が付けば朝だった。
「疲れましたか?」
その問いに、私は少しだけ考える。
「体は疲れたかな」
「やっぱり」
「でもね」
洗っていた丼を見つめながら笑う。
「心は全然疲れてないの」
テオも静かに笑みを浮かべた。
「皆さん、本当に幸せそうでした」
「うん」
「あんなに楽しそうに食事をする人たちを見たのは初めてです」
その言葉が嬉しかった。
料理人として、それ以上の褒め言葉はない。
「私ね」
手を止めずに話す。
「日本でお店をやってた頃も思ってたんだけど」
「にほん?」
「私が暮らしていた国なの」
「そうですか」
「料理って、お腹をいっぱいにするだけじゃないんだよね」
テオは黙って耳を傾ける。
「疲れてる人を元気にしたり、家族と笑ったり、知らない人同士が仲良くなったり」
今日の店内を思い出す。
相席になった人たち。
笑い声。
スープを飲んで驚く顔。
チャーシューを頬張って笑う子ども。
「そんな場所になれたらいいなって、ずっと思ってた」
洗い終えた最後の丼を棚へ戻す。
カタン。
小さな音が静かな店内へ響いた。
「もう、なっていますよ」
テオが優しく言った。
「え?」
「今日、お店へ入った時」
少し照れたように眼鏡を押し上げる。
「皆さん、初めて会った人同士なのに笑っていました」
「……」
「料理が人を繋いでいました」
私は胸がじんわり温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「いえ」
テオは首を横へ振る。
「私は本当のことを言っただけです」
その時。
「ジュリ」
窓辺からシマエナガが飛んできた。
とん。
テオの肩へ止まる。
「あれ」
テオの肩がミシッと音を立てたような気がした。
「お……重いですね」
「ジュリ」
シマエナガは満足そうに目を細めている。
「どうやら気に入られたみたい」
「光栄です」
二人で顔を見合わせて笑う。
その足元では。
「ヴェダー!」
七匹のヴェダーがいつの間にか輪になって、小さな手を繋いでくるくる回っていた。
「今日はみんな嬉しかったんだね」
「ヴェダー!」
元気よく返事が返ってくる。
テオはその様子を眺めながら、小さく笑った。
「……ここへ来ると、不思議と落ち着くんです」
「そうなの?」
「ええ」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「ギルドでは毎日、作物の病気や天候の相談ばかりですから」
「大変だもんね」
「ですが、この店へ来ると」
テオはランプの灯りに照らされた店内を見渡した。
「美味しい匂いがして、笑い声があって、皆さんが幸せそうで」
穏やかに微笑む。
「私まで幸せな気持ちになれるんです」
私は少し照れながら、布巾を絞った。
「それなら」
テオを見る。
「また明日も手伝いに来てくれる?」
一瞬だけ、テオは驚いたように目を瞬かせた。
そして、いつもの優しい笑顔になって頷く。
「もちろんです」
「農業ギルドのお仕事に迷惑が掛からない程度に」
「はい」
「約束ですよ」
「約束です」
二人で笑い合う。
ランプの灯りは柔らかく揺れ、窓の外には満天の星が静かに瞬き始めていた。
ヴェダー亭の長い一日が終わる。
けれど、その静かな時間さえ、私にとっては何より大切な宝物になっていた。
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