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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第29話 テオとトマトとバジルと

「……これは、根が腐っていますね。水やりはどんな感じでしていましたか?」


 しゃがみ込んだ男性は、トマトの根元を指先でそっと掘り返した。


 白いカビのようなものを摘まみ上げ、土の匂いを確かめるように鼻先へ近付ける。


 それから傷んだ根を一本、静かに見つめた。


 無駄な動きがない。


 手慣れている。


「毎日、苗を植えてから朝と夕方にたっぷりあげていました」


 私は少し自信なさそうに答えた。


「暑くなると可哀想かなって思って……」


 男性は小さく頷いた。


「そうですか……」


 そのまましばらく黙り込む。


 私まで何となく緊張してしまう。


 彼の名前は『テオ』と言った。


 農業ギルドで働いている職員らしい。


 年は二十代後半くらいだろうか。


 黒髪をきちんと後ろへ流し、銀縁眼鏡を掛けている。


 背筋は真っ直ぐで、服装にも乱れがない。


 神経質そうで、どちらかというと無口。


 必要最低限のことしか話さない人だった。


 その静かな雰囲気のせいか。


 七匹のヴェダーたちは店の出窓へ並び、こそこそとこちらを覗いている。


「ヴェダー……」


 一匹が葉っぱだけを窓から出す。


 その横では巨大なシマエナガまで首だけ出していた。


「ジュリ……」


 どうやら二人とも警戒しているらしい。


 私は思わず苦笑する。


「大丈夫だよ」


 そう声を掛けても、ヴェダーたちは引っ込まない。


 じっとテオの後ろ姿を見つめていた。


 テオは傷んだ苗を一本持ち上げる。


「苗を植えてすぐに水を……」


 ぽつりと呟く。


 それから。


 ふう、と大きく息を吐いた。


 右手で前髪を掻き上げる。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ厳しく細められた。


「名前は……」


「あ、爽子です」


 私は慌てて頭を下げる。


「上田爽子といいます」


「上田さんですね」


 ようやく名前を呼んでもらえた。


 テオは立ち上がり、畑全体を見渡す。


「日当たりは問題ありません」


 空を見上げる。


「風通しも悪くないですね」


 白樺の葉が風に揺れている。


「この場所なら十分育ちます」


「本当ですか?」


「はい」


 少しだけ頷く。


「ですが」


 その一言で、私はまた背筋を伸ばした。


「トマトは乾燥気味に育てる野菜です」


「え?」


「水を与え過ぎています」


 私は目を丸くした。


「そうなんですか?」


「はい」


 テオは土を指差す。


「まだ湿っています」


 指先で軽く触れる。


「この状態で朝夕二回も水を与えると、根が呼吸できません」


「呼吸……」


「根腐れを起こします」


 私は思わず萎れた苗を見る。


「だから……」


「ええ」


 静かに頷いた。


「上田さんが悪いわけではありません」


 その言葉に少しだけ胸が軽くなる。


「初めて野菜を育てる方は、水をたくさんあげた方が元気になると思われますから」


「私もそう思ってました……」


「お気持ちは分かります」


 テオは珍しく少しだけ表情を和らげた。


「ですが逆です」


 私はポケットから小さなメモ帳を取り出した。


「少し待ってください」


 鉛筆を握る。


「忘れちゃいそうなので」


 そう言うと、テオは少し驚いたように瞬きをした。


 私は急いで書く。


『水は土の表面が乾いてから』


 するとテオが補足するように言った。


「指で土を触ってください」


「はい」


「一センチほど乾いていたら、その時たっぷり与えます」


「乾いたら、たっぷり……」


 私は何度も頷きながら書き留める。


「毎日ではなく、土を見て判断してください」


「なるほど」


 畑も人と同じなんだ。


 喉が渇いた時に水を飲む。


 何でもやり過ぎは良くない。


 私は改めて畑を見渡した。


 テオは続ける。


「あと」


 少し歩いて隣の空いた畝を指差した。


「ここへバジルを植えてください」


「バジル?」


「はい」


「どうしてですか?」


「相性が良いんです」


 簡潔な返事だった。


「害虫予防になります」


「へぇ」


「それに」


 ほんの少し口元が緩む。


「トマトの味も良くなると言われています」


「ええ!」


 私は思わず声を上げた。


「そうなんですね!」


 トマトとバジル。


 確かにマルゲリータピザにも使う。


 カプレーゼもそうだ。


 日本でも相性抜群だった。


「テオさん、物知りなんですね!」


 思わず顔を覗き込む。


 すると。


 テオはぴたりと動きを止めた。


「あ……」


 少しだけ目を逸らす。


 右手で口元を隠すように押さえた。


「……仕事ですから」


 照れている。


 表情は変わらないのに、耳だけ少し赤くなっていた。


 私は何だか可笑しくなってしまう。


「ありがとうございます!」


 深く頭を下げる。


「本当に助かりました」


 テオも小さく会釈を返した。


 診断が終わったので、私は店の方を振り返る。


「せっかくですし」


 厨房から漂うコーヒーの香りに気付く。


「店でコーヒーでも飲んでいきませんか?」


 テオは一瞬だけ店を見る。


 窓から七匹のヴェダーと巨大なシマエナガがじっとこちらを見ていた。


「ヴェダー」


「ジュリ」


 歓迎しているのか警戒しているのか分からない。


 テオは小さく微笑んだ。


「ありがとうございます」


 一呼吸置いてから答える。


「ですが」


「勤務中ですので」


 丁寧な口調だった。


「また改めて伺います」


「そっか」


 私は少し残念だったけれど、笑顔で頷いた。


「それじゃあ、また今度いらしてください」


「はい」


「今度こそ、トマトを収穫して、美味しいピザをご馳走します!」


 その言葉に。


 テオは少しだけ目を細めた。


「楽しみにしております」


 深々と頭を下げる。


 本当に真面目な人なんだな。


 そんなことを思いながら、私は畑を後にした。




 ◇◇◇





「せっかくなので」


 私は提案する。


「このまま市場へ行って、新しい苗を買ってきます」


「でしたら私も同行します」


 テオは即座に答えた。


「植え付け前に確認できますので」


「お願いします」


 二人で市場へ向かう。


 朝市は今日も活気に溢れていた。


 野菜を並べる人。


 焼きたてのパンを売る人。


 魚を捌く音。


 あちこちから威勢のいい声が聞こえてくる。


 種苗屋のおじさんは私たちを見るなり笑った。


「おっ、ギルドのお兄さん連れてきたか」


「はい」


 事情を説明すると、おじさんは元気そうな苗を一本一本選んでくれた。


「一番花付きがいいのはこれだ」


 黄色い花が咲いたトマト苗。


 それから。


「バジルも忘れるなよ」


 香りのいい苗を数株。


 木箱へ丁寧に並べてくれた。


「ありがとうございます」


 私は木箱を持ち上げる。


「よいしょ!」


 その瞬間だった。


「わっ」


 思った以上に重い。


 足元がぐらりと揺れる。


 木箱が傾く。


 苗が倒れそうになった。


 その瞬間。


 すっと伸びた腕が私の肩を支えた。


「危ない」


 力強い腕だった。


 私は転ばずに済み、木箱も無事だった。


「あ……ありがとうございます」


 慌ててお礼を言う。


 テオは木箱を見つめ、ほっと息を吐く。


「いえ」


 静かな声で答えた。


「苗が傷まなくて良かったです」


 私は思わず笑ってしまう。


「私じゃなくて苗なんですね」


「……」


 テオは一瞬だけ固まる。


 それから眼鏡を押し上げた。


「もちろん、上田さんもです」


 少しだけ言い直したその横顔は、熟れ始めたトマトのようにほんのり赤く染まっていた。


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