第18話 パンが消えた
一人の夜は不安だ。
昼間は気にならなかった静けさも、夜になると別の顔を見せる。
外では雨が降り始めていた。
最初は屋根を優しく叩いていた雨粒が、やがて音を増していく。
ザァァァァ――。
風まで吹き始め、椎木の枝が大きく揺れた。
窓ガラスへ雨粒が激しく叩きつけられる。
土砂降りになった真夜中。
白い稲光が夜空を裂き、遠くの教会の避雷針へ真っ直ぐ落ちた。
ピカッ。
一瞬だけ部屋の中が昼間のように明るくなる。
その直後だった。
ゴロゴロゴロゴロ――。
ドーン!
「ひゃっ!」
私は思わず布団を頭まで被った。
胸がどきどきする。
新しく買った藁のマットレスは昨日までの古いものよりずっと寝心地がいい。
なのに。
目を閉じても眠れなかった。
身体は疲れている。
それでも頭だけが冴えてしまう。
雨音。
風の音。
家がきしむ音。
どれも誰かの足音に聞こえてしまう。
「……眠れない」
小さく呟く。
ランプの火はもう消してある。
暗闇の中では、窓から差し込む稲光だけが時折部屋を白く照らした。
「上田――」
また。
あの声だ。
耳元で囁かれたような、遠くから呼ばれたような。
男とも女とも分からない、か細い声。
私は布団の中で息を止めた。
聞き間違いじゃない。
旅の途中。
白樺林で休んでいた時にも聞いた。
井戸で水を汲んでいた時も。
昨日の夕飯を食べていた時も。
ずっと同じ声。
「熊ちゃんが……?」
そんなはずはない。
熊ちゃんはグリズリー辺境伯として城で暮らしている。
こんな夜中にここまで来るとは思えない。
「それとも……」
別の誰か。
私を知っている誰か。
ずっと後をつけている?
でも。
「誰が?」
胸が苦しくなる。
「なんのために……」
思い返せば、オホーツク領の城で熊ちゃんの隣へ立っていた女性。
あの人は壇上から私を睨んでいた。
あの目は忘れられない。
まるで私が全部奪ったと言いたげな。
恨みをぶつけるような視線。
「恨みたいのは……私の方だわ」
思わず苦笑する。
熊ちゃんを失ったのは私だ。
一緒に築いた店も。
未来も。
全部置いてきた。
なのに。
どうして私はこんなに弱いんだろう。
「一人でやっていくって決めたのに」
布団をぎゅっと握る。
昼間は大丈夫だった。
市場を歩き、新しい服を買い、料理を作っている時は前だけを向けた。
でも夜になると駄目だった。
静けさが心の隙間へ入り込んでくる。
ゴロゴロゴロゴロ――。
ドーン!
「ひゃっ!」
また雷が落ちる。
窓ガラスがビリビリと震え、壁に掛けたフライパンまでカタカタ鳴った。
私は肩を縮め、目をぎゅっと閉じる。
その瞬間。
「上田――」
また聞こえた。
今度は少しだけ近かった気がした。
私は息を呑む。
耳を澄ませる。
聞こえるのは雨音だけ。
やがて疲れが勝ったのだろう。
いつの間にか意識はゆっくりと眠りへ落ちていった。
◇◇◇
チュンチュン。
チュン、チュン。
小鳥のさえずりで目が覚める。
昨夜の嵐が嘘だったみたいに、窓の外には青空が広がっていた。
椎木の葉には無数の雨粒が残り、朝日を受けて宝石みたいにきらきらと輝いている。
「朝……」
身体を起こし、大きく欠伸をする。
鏡を見ると、少し目の下に隈ができていた。
「寝不足ね」
昨夜のことを思い出し、小さくため息をつく。
でも考えていても仕方ない。
まずは朝ご飯だ。
階段を下りる。
すると。
「コッコッコッ!」
チョボが鳥籠の中で羽をばたばたさせていた。
「はいはい」
待ちきれないらしい。
餌箱を見つめながら首を上下させている。
「チョボ、お前も一人じゃ寂しいよね」
餌を入れると夢中でついばみ始めた。
その姿を見ていると、ふと思う。
「鶏小屋、作ろうかな」
食堂酒場を始めるなら卵はいくらあっても困らない。
チョボ一羽では到底足りない。
市場で雄鶏と雌鶏を何羽か買って育てれば、新鮮な卵が毎日手に入る。
裏庭も十分広い。
「うん、それがいい」
夢がまた一つ増えた。
私は小麦粉を入れた木鉢を取り出す。
昨夜仕込んでおいたパン生地。
ビール酵母のおかげで、ふわふわに膨らんでいた。
「成功ね」
指でそっと押すと、ぷにっと弾力が返ってくる。
木のまな板へ薄力粉を振る。
チーズを細かく刻み、胡桃を砕く。
パン生地へ混ぜ込んで、何度も折り畳む。
チーズの香りがふわりと漂った。
熊ちゃんは、この香りが好きだったな。
ふとそんなことを思い出す。
「いけない」
頭を振る。
今は前を向こう。
丸く形を整える。
少しいびつになってしまった。
「これでよし……っと」
窯へ入れる。
しばらくすると、生地はむくむくと膨らみ始めた。
こんがり焼き色が付き、チーズの香ばしい香りがキッチンいっぱいへ広がる。
「いい匂い」
自然と笑顔になる。
昨夜の不安なんて、まるで夢だったみたいだ。
焼きたてのパンを木皿へ二つ並べる。
昨夜仕込んだ野菜スープを温め直し、器へ注ぐ。
湯気がふわりと立ち上る。
「いただきます」
そう言おうとして。
「あ」
スプーンを忘れたことに気付いた。
「もう」
苦笑しながらキッチンカウンターへ取りに戻る。
木のスプーンを一本持ち、振り返った。
「あれっ?」
テーブルを見つめたまま固まる。
さっきまで二つ並んでいたはずの焼きたてのパン。
そこには、一つしか残っていなかった。




