第17話 上田と呼ぶ声
買ったばかりのワンピースへ袖を通す。
麻の生地はさらりとしていて肌触りがいい。
鏡の前へ立ち、くるりと一回転してみる。
風をはらんだスカートが、朝顔の花が開くようにふわりと広がった。
大きく開いた襟ぐりには、小さなピコフリル。
裾には紺色の糸で丁寧に縫われたアイヌ紋様の刺繍。
そこへお気に入りの青いエプロンを結ぶ。
鏡の中には、昨日までとはまるで違う自分が映っていた。
「……やっぱり可愛い」
思わず頬が緩む。
もうパーカー姿で浮いている旅人じゃない。
この町で食堂酒場を営む女主人。
そんな気持ちに少しだけ近付けた気がした。
裾を摘まんで、もう一度くるりと回る。
「うん、これにして良かった」
レオンが取り戻してくれたお金がなければ、この服も買えなかった。
市場で別れる時の笑顔がふと思い浮かぶ。
『僕の名前はレオン。いつか行くよ』
「本当に来てくれるかな」
小さく笑ってしまう。
会ったばかりの人なのに、不思議と安心できる笑顔だった。
私は鏡へ軽く頭を下げる。
「よし」
気持ちを切り替える。
今日の晩ご飯を作ろう。
市場で買った食材を並べる。
キャベツ。
ナス。
角うさぎの肉。
それから岩塩と胡椒。
豪華ではない。
でも十分だ。
「いただきます」
私は野菜へ手を合わせる。
包丁を持つ。
「シクシクシクシク……」
キャベツが小さく泣き始めた。
「ごめんね、ごめんね、いただきます」
一口大へ切っていく。
トントントン。
包丁の音が静かな店内へ心地よく響いた。
次はナス。
「キャーーー!」
元気な悲鳴が上がる。
「そんなに大げさじゃないでしょう」
思わず笑ってしまう。
「いただきます」
ざく切りにして皿へ移す。
切れ端は捨てない。
寸胴鍋へ入れる。
水をたっぷり張り、火へ掛けた。
コトコト煮込めば立派な野菜スープになる。
ギルが教えてくれたわけじゃない。
熊ちゃんと二人でラーメン屋をやっていた頃、何度も繰り返した仕込みだった。
「もったいないもんね」
誰に言うでもなく呟く。
この世界では野菜くずを平気で捨ててしまう。
でも、それでは美味しい出汁は生まれない。
鍋へ蓋をして火加減を弱める。
次は角うさぎだ。
包丁を入れると柔らかな肉がすっと切れていく。
程よい脂身が付いていて、美味しそうだった。
フライパンを火へ掛ける。
ジュワッ。
肉を一切れずつ丁寧に並べる。
たちまち脂が溶け始め、香ばしい音が響いた。
パチパチ。
パチパチ。
小さな花火みたいな音。
菜箸でひっくり返す。
「あちっ!」
飛び跳ねた脂が手の甲へ当たる。
思わず手を引っ込める。
「もう、元気なんだから」
苦笑しながら焼き色を確かめる。
両面がきつね色になったところで皿へ移した。
フライパンには旨味たっぷりの脂が残っている。
そこへナスを入れる。
ジュワッと音を立てて脂を吸っていく。
続いてキャベツ。
木べらで大きく混ぜる。
岩塩をひとつまみ。
胡椒をぱらり。
最後に角うさぎを戻す。
全体をさっと混ぜ合わせる。
それだけなのに、キッチンいっぱいへ食欲をそそる香りが広がった。
「できた」
木皿へ盛り付ける。
茶色い肉。
紫色のナス。
鮮やかな緑のキャベツ。
彩りも悪くない。
私はスープの様子を見に行く。
寸胴鍋から湯気が立ち上っている。
吹きこぼれないよう火を少し弱める。
野菜の優しい香りが漂ってきた。
「いい感じ」
席へ戻り、ナイフとフォークを手に取る。
「いただきます」
角うさぎへナイフを入れる。
ほろり。
驚くほど柔らかい。
一口食べる。
脂身は舌の上でとろけ、赤身はしっとりしている。
「ん……!」
思わず目を閉じる。
噛むほどに旨味が広がる。
続いてナス。
じゅわっと脂が口いっぱいへ溢れた。
キャベツのシャキシャキした食感が心地よく、後味をさっぱりさせてくれる。
「ん〜、美味しい♪」
思わず声が大きくなる。
誰もいない店なのに、つい笑顔になってしまった。
「これならお客さんにも喜んでもらえそう」
そんなことを考えた、その時だった。
「上田――」
ゾクリ。
背筋へ冷たいものが走る。
まただ。
また誰かが私を呼んでいる。
今度ははっきり聞こえた。
私は椅子を勢いよく引き、立ち上がる。
「誰?」
店の中を見回す。
厨房。
入口。
二階へ続く階段。
誰もいない。
静まり返っている。
それでも確かに聞こえた。
「上田――」
風ではない。
木の軋む音でもない。
誰かの声だった。
ゾワゾワと怖気が背中を這い上がる。
「コケッ?」
チョボが首を傾げ、不思議そうに私を見る。
「誰!? 誰かいるの!?」
返事はない。
窓の外を見る。
いつの間にか空は黒い雲に覆われていた。
ポツリ。
ポツリ。
雨粒が木枠の窓ガラスを叩き始める。
やがて雨脚は強くなり、バラバラと音を立て始めた。
大きな椎の木が夜風を受け、ざわざわと枝葉を揺らす。
まるで誰かが窓の外で立っているように、黒い影がガラスへ映った。
ランプの火もゆらゆらと揺れる。
昼間まで温かく感じていた店が、急によその家のように思えた。
私は思わず胸元で両手を握り締める。
静まり返ったヴェダー亭には、雨音と椎の葉擦れだけが響き続けていた。




