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異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~  作者: 雫石しま


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第19話 やっぱりいる

「……パンがない?」


 思わず目をぱちぱちと瞬かせる。


 さっきまで皿の上で湯気を立てていた、焼きたてのチーズと胡桃のパン。


 二つ並べたはずなのに、一つしか残っていない。


「えっ?」


 私はもう一度テーブルを見た。


 やっぱり一つだ。


 見間違いじゃない。


「そんなはず……」


 テーブルの下を覗き込む。


 床板の隙間。


 椅子の脚の周り。


 どこにも落ちていない。


 椅子を動かす。


 ギギッと音を立てるだけで、パンは見つからない。


 今度はキッチンカウンターの下まで覗いてみる。


 鍋。


 木箱。


 薪。


 どこにもない。


「どういうこと?」


 頭の中が真っ白になる。


 確かにテーブルへ置いた。


 スープもよそって。


 それからスプーンを取りに行った。


 ほんの数歩。


 たった数秒だ。


 その間にパンが一つだけ消えるなんて。


「コケ?」


 チョボが首を傾げながら私を見上げている。


「チョボじゃないよね?」


「コッ」


 短く返事をする。


 鳥籠の中から一歩も出ていないのだから、犯人ではない。


 第一、あんな大きなパンを丸ごと食べられるとは思えなかった。


「うーん……」


 腕を組み、残されたパンをじっと見つめる。


 誰かが入ってきた?


 でも玄関の木戸は閉まっていた。


 窓も閉めたままだ。


 泥棒なら、お金を盗むはず。


 パンだけ盗んで帰る泥棒なんて聞いたことがない。


「妖精……とか?」


 ふと思い付く。


 この世界なら十分あり得そうだった。


 馬はしゃべるし。


 野菜も泣く。


 井戸まで悲鳴を上げる。


 パンを食べる妖精くらいいても不思議じゃない。


「……でもなぁ」


 納得できない。


 できないけれど。


 目の前からパンが消えてしまった以上、この状況を受け入れるしかなかった。


「いただきます」


 私は両手を合わせる。


 残ったパンを半分へ割る。


 ふわり。


 焼きたてのビール酵母の香りが立ち上った。


 とろりと溶けたチーズが糸を引く。


「あっ」


 慌てて口へ運ぶ。


 熱々のチーズが舌の上でとろける。


 胡桃の香ばしさが後から追い掛けてきた。


「美味しい……」


 自然と笑顔になる。


 続いて野菜スープを一口。


 玉ねぎの甘み。


 キャベツの優しい香り。


 昨日煮込んだ野菜くずとは思えないほど、まろやかな味だった。


「……あぁ、美味しい」


 ほっと肩の力が抜ける。


 やっぱり料理は人を幸せにする。


 そう思った、その時だった。


「上田――」


 ゾクリ。


 スプーンを持つ手が止まる。


 まただ。


 今度はすぐ近く。


 店の中で誰かが囁いたような距離だった。


 私は勢いよく顔を上げる。


 バッ。


 食堂を見回す。


 入口。


 階段。


 厨房。


 誰もいない。


 静まり返っている。


 息を殺して耳を澄ます。


 シーン……。


 聞こえるのは。


 ピチョン。


 タライへ落ちる水滴の音だけ。


 ランプの火も静かに揺れている。


 でも。


 確かに聞こえた。


「だ、誰……」


 喉が渇く。


「誰なの?」


 返事はない。


 私は思わず椅子から立ち上がった。


 胸の鼓動がどんどん速くなる。


 ドクン。


 ドクン。


 まるで心臓だけが暴れているみたいだった。


「落ち着いて……」


 そう自分へ言い聞かせる。


 でも体は言うことを聞かない。


 残っていたパンを慌てて口へ押し込む。


「んぐっ」


 熱い。


 でも味なんて分からない。


 急いでスープを流し込む。


 ゴクゴク。


 ようやく飲み込めた。


 そのまま皿を抱えてキッチンへ向かう。


 木桶へ水を張る。


 皿を洗う。


 ゴシゴシ。


 ゴシゴシ。


 いつもよりずっと手が速い。


 スプーンも洗う。


 木皿も洗う。


 まるで何かから逃げるように、夢中で手を動かした。


 背中がむずむずする。


 誰かに見られている。


 そんな気がして仕方がない。


「気のせい……」


 違う。


 気のせいじゃない。


 絶対に誰かいる。


 皿を拭き終えると、私は麻袋を掴んだ。


 財布。


 スマホ。


 ちゃんと入っている。


 肩へ掛ける。


 そして。


 バタン!


 勢いよく木戸を開け、外へ飛び出した。


「はぁっ……!」


 思い切り息を吸う。


 外の空気が肺へ流れ込んできた。


「あぁ、びっくりした」


 胸を押さえる。


 心臓はまだ早鐘を打っている。


 私は恐る恐る店を振り返った。


 窓ガラスの向こうは静かだ。


 誰の姿も見えない。


 それなのに。


「あの中に……いる」


 あのか細い声を出す何かが。


 私の知らない誰かが。


 まだヴェダー亭の中にいる気がした。


 ジリ……。


 ジリジリと後ずさる。


 足が勝手に店から離れていく。


「……まだ、アレが店の中にいるのよね」


 大きな椎木が風を受け、ざわりと枝葉を揺らした。


 朝だというのに木陰だけが妙に暗い。


 葉擦れの音が、誰かの笑い声にも、囁きにも聞こえる。


 店の窓は静かに私を見つめ返していた。


 まるで――中にいる何かが、私を待っているように。


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