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45『堕天の代償』

 ナターシャは一人、黒く焼け焦げた大地を歩いていました。彼女の背に一枚だけあった、あの蝙蝠のような翼はもうありません。ナターシャは人間に戻っていたのです。ごぼごぼと口の中から零れる、血と、胃の内壁。ハーヴィの爆発に汚染された世界は、ただの人間には負担が大きすぎるのです。ルールーのシェルターから出て、一キロほど歩いたことすら、奇跡的なこと――――。


 ナターシャは倒れます、無表情のままで。でも、ナターシャは満足していました。愛する恋人の住処から、少しでも離れて死ねたことに。


 強き心を持つルールー・ララトアレであろうと、恋人が死ぬ姿を見てしまったら泣いてしまうだろうから。




 翌日、いつの間にか眠っていたルールーは目を覚ましました。


「ナターシャ……君か」


 終わりかけていたはずの体は、なんの問題もなく動かすことができます。数式を思い浮かべる必要もないほどに、脳の動きも正常です。


「……私に、悪魔性を渡したのか」


 ルールーはついに、完全に、どうしようもないほど、人間ではなくなっていました。ナターシャが、自身の中にある悪魔を受け渡すことでルールーの命を救ったのです。


「…………」


 ベッドの上に置かれていた紙切れに書かれていたのは、座標。


「ナターシャ。私も、君のように勇気を持とう」


 この狂った世界では夢は現実になりうる、ならば、現実も夢になりうる。必要なのは、いつか夢から醒める日がくるということに対する、覚悟だけ。覚悟とは、常に心に(いだ)き続けられるような、柔らかなものではない。恐怖に直面したときに、空っぽの体の底から吐き出される、ありもしないものこそが覚悟なのだ。


「あれ? ルールー元気になったの?」


 ベッドから飛び起き、研究室へと走るルールーを見てエリーが嬉しそうに言いました。


「ルールー、そんなに急いでどうしたの――」


 ルールーは机のひきだしを開けて、ピストルを取り出し戻ってきました。


「ルールー! だめぇ!」


 バン!

 破裂音とアリスの絶叫。


「あ……痛い」

「私は、私のつくり出したアリスを選ぶ」


 腕に縋り付いたアリスを振り払います。


 バン!

 バン!

 バン!

 バン!

 

 ルールーは続けて四回、エリーの胸を撃ちました。殺せるとは思っていません。一時的に動きを止められれば良いという気持ちを込めて行なわれた乱暴な射撃です。


「ねぇ! ルールーやめて! なんでエリーをいじめるの!」

「ぎっ、ぎゃああああああ」


 ルールーは空になったピストルを放り捨て、エリーの一つだけ残っていた眼球を一気に抉り取りました。


「ルールー! やめて! エリーが可哀想よ!」

「やはり、私の読み通りだ」

「エリーが……あれ?」


 エリーの姿は、どこにもありません。そこにあるのは、床に落ちている一冊の本だけ。


「アリス、こっちを向け!」

「ひっ。い、痛いっ」

「我慢しろ!」


 ぶちぶちとひきちぎったのは、アリスの左目を奪った傷を縫合した糸です。


「痛いいい! 痛いよぉ!」

「動くな!」

「いい痛いぃ」


 アリスを蹴飛ばし踏みつけます。


「動くな、アリス! 動くなアリス!」

「ぎいっやあああああ!」


 ぽっかりとあいた、かつて眼球が入っていた穴。そこに、抉り出したばかりのエリーの眼球をはめ込みます。


「さあ、起動しろ。完全なるニューアリス!」

「あ、あ、うああああああ! 体があああ」


 アリスの体が膨らみ服がはじけ飛びました。身体が、まるで拡大コピーを繰り返しているかのようにどんどん大きくなっていくのです。


「ははは、不思議の国のアリスの名場面だな! だが、それでは困るのだよ」


 ルールーは、まだ無傷であった左手の中指を食いちぎり、巨大化していくアリスの裸体に血でプログラムコードを描きます。人間を猫鬼に加工する際のプログラム、魂と寿命を圧縮するプログラムを元にした――――新しいプログラムを。


「え、あれ、あれ? え、あ、戻る」


 ルールーが新たに構築したのは、巨大化し続けるアリスの肉体を圧縮する物理プログラム。アリスは、あっという間に元どおりの大きさになったのです。


「んっ……ぎっぃいいいあ」


 直後、アリスが苦しみだします。腹が、内側から殴られているかのようにボコボコボコと不自然に動きだしたのです。


「ああっ!」


 ルールーがナイフでアリスの腹を切り裂くと、そこから、腕が一本飛び出してきました。指はなんと、十五本もあります!


「いいぎっ!」


 パキンと鳴ったのは、今飛び出した腕が蝋化した音です。


「ひあああ! あああ! 痛い! 痛いよぉ!」


 アリスの体を三か所傷つければ、三本。四か所傷つければ、四本。ランダムに腕や足が生えてきてどんどんと複雑な形になっていきます。


「いいいいいたいいいいいいい」


 余分に生えたものは全て蝋となる。それは、とても――――耐えがたい痛み。泣いているのは、アリスが弱虫だからではありません。


「さあ、アリス飛ぶぞ」


 ルールーの背中から、バサリと黒い翼が生えました。蝙蝠のような翼ではなく、鳥のような翼が二枚。


「ひあ! ああああああ! 高い、怖いよぉ!」


 アリスを抱えて、ルールーは飛びました。


「悪魔は、なんでもありか」


 地下シェルターの分厚い天井という存在をキャンセルし、存在しないことにしたルールーの視界に映ったのは、青い空。


「…………」


 初めて、自らの翼で空を飛んだ感想などなにもありません。そんなことはどうでもいい。どうでもいいことなのです。


「たかいいいい、こわいいよおおあお」

「…………」


 ルールーはただひたすら目指しているのです。ナターシャが残した座標が示す場所を。


「ひあ! びああ! いいああ! いいいいいいい! ぴあああ」


 地上があまりに遠くなってしまったことが恐ろしく、アリスはとうとう狂ってしまいました。でも、それもどうでもいいこと。


「あった。これだなナターシャ!」


 それは、干上がった近海に残った大きな水たまり。それは、かつてナターシャが発見した海溝。入り口こそ狭いものの、深さは八千メートル以上あります。水深があるので、周りが干上がっても水を残していられるのです。


「アリス、ここが君のいるべき場所だ」


 ルールーはアリスをそこに沈めるつもりでした。傷つけば傷つくほど、蝋化した腕や手を生産するアリス。さきほどナイフで傷つけた段階で、致命傷を負っても死なないことは確認済みです。つまり、海溝に沈めれば、アリスは水圧で押しつぶされ続け、永遠に蝋を生み出し続けることになります。

 この完全なる理解は、上宇宙を飛ぶボイジャー一号の視点からの理解でもありました。元々ボイジャー二号であったナターシャから悪魔性を受け取ったルールーの意識は大気圏を飛び越え、上宇宙を神として漂い続けるボイジャー一号のシステムをジャックしたのです。ルールーは科学者ですから、宇宙探査機のような科学の産物に干渉するのは、最も得意とすることなのです!


「ぴいいあ、ぴい」

「さあ、沈めアリス」


 海溝にその体を浮かべてみると、どうも沈みません。


「まあいい、手間をかけるのは科学の基本だ」

「びいい! あああ! びいいいいい!」


 ルールーはアリスの体をめった刺しにしながら、傷口に周囲に落ちている死んだ珊瑚の欠片を詰め込んでいきました。


「ぴぃいいい! びいああ」


 どんどん生えてくる手足。アリスの姿はあっという間に見えなくなってしまいました。


「びいいいい、いい。い」


 ここにあるのはもはや、腕と脚でできたハリネズミのような物体。アリスと呼べる代物ではありません。


「はぁっ……はぁっ」


 ルールーは次々と生えてくる手足をへし折りながら、隙間の肌を傷つけ珊瑚を詰め続けていきます。


「はぁっ……ようやく沈みはじめたか」


 蝋化した手足は硬いままですが、ルールーには溶かすためのアイデアがありました。


「これで空に神はいなくなる! ついに世界は人間のものになる!」


 ルールーはリンクしたボイジャー一号に、思考の中で作り上げたウイルスを流し込み主導権を奪います。堕天を、開始させるためです。


「はぁっ、はぁっ。ボイジャーが堕ちた熱で…………蝋は溶け……世界を安定させる」


 それはとてもゆっくりとした落下。アリスの蝋が世界を満たしたタイミングに合わせてボイジャーを地表に激突させることが狙いなのです。


「世界に再び黒い雨が降り……世界は……冷えるだろう」


 沈みはじめたアリスだったものは、まだ、水面から見える深さにあります。


「私は蝋に固められた世界に芯を挿し、火をつけ暖をとる。アリスが増えるよりも、ゆっくり燃やせばいい。そうすれば永遠に熱を得ることができ……世界は救われ……あ?」


 沈むアリスを見ていたはずなのに、空が、見えました。空の次に、まるで、幼い子どもが描いたような真っ黄色の月が見えました。


「その体で、どうやってここまで来た……」


 月は瞳でした。艶やかな黒髪を持つ猫鬼、クロネコの瞳でした。

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