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44『氷の速度』

 一月(ひとつき)経っても雲はまだ晴れず、世界はだんだんと冷え、やがて凍り付いていきました。


「猶予を……くれたのか」

「寝てなきゃだめだよ」

「ああ、すまないエリー。私は…………この世界をげほっ、げほっ」


 海の一部も凍りはじめたおかげで、下宇宙へ水が零れていくペースも遅くなっているはず…………それは、この世界の滅亡までの時間が伸びたということでもあります。


「酷い熱だよ、ルールー」

「エリー、私はやらなければならないことが」


 体調を崩し、起き上がれない日が増える少し前、ルールーとエリーが仲良くなるきっかけがありました。字の読めないアリスが、ルールーに不思議の国のアリスの読み聞かせをせがんだのです。小説丸々一本。長時間にわたるルールーの朗読を、エリーは最後まで聞いていました。アリスは、アリスが穴に落ちた場面ですぐにあくびをし、小瓶を手に入れたころにはぐっすりと眠ってしまっていましたが。


「俺、この話すごく好きだ」

「そうか、それはよかった」


 ルールーが倒れたのは、その翌日のことでした。


「…………また、寝ていたのか」


 ベッドの上、腰のあたりに感じる不快感は下血。ルールーの体はもう、だいぶ壊れていました。


「脳が無事なうちに……」


 エリーとアリスが近くにいないのは、多分、寝ているから。心配ばかりしてやかましい二人がいない隙に、世界を救うための理論を見つけ出さねばと、ルールーは無理やり体を起こしました。


「げほっ……げほっ!」


 白かった掛布団は、度重なる吐血でだいぶ汚れていました。アリスもエリーも布団を洗う技術を持っていないのです。


「くそ……この程度の……」


 脳の準備運動として、いくつかの数式を頭に思い浮かべたのですが……解くことができません。子どものころに、簡単に解いてしまった数式が。


「私の……負けなのか」


 どさり、再びベッドに倒れ天井を見上げます。

 ナターシャはまだ、このシェルターの上を飛んでいるのか……ルールーの心が科学から離れていきました。


「ナターシャ、助けてくれ。ああ、幻覚まで見え出したか」


 ベッドの傍にナターシャが立っているように見えたのです。航海士であったころの服装で。


「工場で……見た現象だな」


 幻覚のナターシャは時々デジタルノイズのように揺れて歪みます。まるで、この世の全ては映像であるとでも言いたげに。


「……げほっ……ううっ!」


 ルールーの胸に、強い痛みが走ります。


「もう……私は死ぬのだな」


 医学も学んでいる天才科学者は、理解できてしまいました。今の痛みは、右の肺が完全に終わった最期の嘆きのような痛みだと。


「はっ……はっ……ぽんこつの肺でも、片方になるとつらいものだ……なあ、ナターシャ。幻覚でもいい、私に触れてくれないか」


 揺れる映像のナターシャが、無言でルールーに手を伸ばしました。そして、その掌が頬に軽く触れたのです。


「ああ、暖かい」


 そこに、体温がありました。


「まさか……」


 じっと無表情なままでルールーを見ているナターシャは、幻覚でも幻想でも映像でもありませんでした。現実――現物――――本物であったのです。

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