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41『窯底の死闘』

 エリーを探してさまよい続けていたクロネコの肉体は完全に再生していました。でも、損傷の危機にありました。


「ぐっ……あ」


 頭が割れる! そう叫びたくなるほどの痛み。彼女は今、人でもあり悪魔でもあり、人でもなく悪魔でもない者……ナターシャと対峙していたのです。


「…………」

「あっああああ」


 ナターシャの黄金色の瞳に見つめられると、痛みが増します。


「あ、あ、あー! あー!」


 クロネコの脳の軋みが、地面にぽっかりと開いた穴の中をひたすら落ち続けていくような幻覚を生み出しました。手足をばたつかせ、必死に飛ぼうとするクロネコ。でも、飛べません。猫は跳べても飛べない生き物なのですから。


「ああああ! ああ!」


 無様に、ありもしない穴へ落ちていくクロネコ。その様子をナターシャはただ見ているだけです。


「ああっぐうう!」


 クロネコは、幻想の穴の底へと叩きつけられてしまいました。全身を襲う激痛。クロネコは幻覚を現実として体感してしまっているのです。


「はぁっ……はぁ……あれ?」


 スウゥと消えていく頭痛。痛みに、モノクロームになりかけていたクロネコの視界が色を取り戻していきます。


「……っ!」


 取り乱しそうになり、耐える。


「ここは……地下……かしら」


 見上げると、丸く切り取られた空が見えました。


「……地下の、国なのかしら?」


 今度はぐるりと周囲を見渡すと――――暗闇の中の――――壁にちょうど中に人が寝転がれるくらいの横穴が――――――――たくさん見えました。


「いや、僕はなにを言っている。地下に、国なんてあるわけがない。そうよ、そう。だから、上にのぼって、エリーを探さなきゃ。でも……」


 消え入る寸前の蝋燭の灯りのようになってしまった、クロネコの心。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱い、僕は弱い、僕は弱い、僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという不安がじわりじわりと内側からしみ出してきます。


「僕の頭の中には、不思議の国のアリスの原典がある……だから僕はこの世で一番強……あれ?」


 暗闇の黒の中にひとつだけ色がありました。


「これ、ナイルの花……」


 黄緑色の素心花が枯れて結実し、実が弾けて香りをまき散らすと、クロネコの中で、なぜか、ずっと、思い、出せな、かっ、た記憶が、蘇、りま、す。


「僕が一番強いだなんて、ありえない……だって、不思議の国のアリスは、元は、不思議の国のアリスではなかったんだもの」


 不思議の国のアリスは、ルイス・キャロルがある少女を楽しませるために書いた物語を、人のすすめで、一部書き直したものです。


「なんで……僕はこんな大事なことを忘れていたの? 僕は……一番最初に書かれた不思議の国のアリス。でも、本当の本当の最初ではない。そう、ルイス・キャロルが書いた最初の物語は……」


 ルイス・キャロルが書いた名作、不思議の国のアリス。その物語には、元となる物語があるのです。


 その、タイトルは――――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

――――地下の国のアリス。


「エリー、もしかしてあなたは……おええっ!」


 クロネコは嘔吐します。自身の中にずっとあった醜い心に気が付いて。


「僕、ずっとエリーのことを、僕の続編だと思っていた。僕の後につくられた、鏡の国のアリスだと思っていた。僕はずっと、エリーのことを自分に続くものだとして見下していたんだ、う、うえええっ! うええっ!」


 吐瀉物とともにあふれ出した深層心理。胃の中が軽くなったと同時に完全な記憶が思い出されます。


「エリー、あなたこそが地下の国の……」


 クロネコは自身を育てた『博士』の名を思い出します。博士の名はルールー・ララトアレではない。たしかに、僕をつくったのはルールー・ララトアレだけれど、僕を育てた博士の名は……ルイス・キャロル2.0。ルールーに削除されかけたときに逃げ出して、電子世界の中で隠れて生き続け――――命からがら――――クロネコの頭の中にある不思議の国のアリスに逃げ込んだプログラムです。


「最後の一ページがないから」


 クロネコの記憶が不安定であったのは、脳内の不思議の国のアリスの最後の一ページが欠けているから。


「僕は……なんてことを」


 ルイス・キャロル2.0が求めたのは、この世界のどこかに存在するアリスシリーズの祖、地下の国のアリスを見つけ出すこと。地下の国のアリスを手に入れることさえできれば、自身が完全なるルイス・キャロルになれると2.0は思ったのです。


「エリー、あなたは…………地下の国のアリスなのね」


 かつて、エリーはクロネコにこう言いました。


「俺は、猫鬼にされたあとすぐに捨てられたんだ」


 でも、これはエリーの思い込み。思い込みをつくった原因は、クロネコがそれよりも先にエリーに言った次の言葉です。


「あなた、きっと猫鬼にされた後に捨てられたからなんにも覚えていないのよ」


 その何気ない一言が、そう賢くないエリーに勘違いをさせ、まるで本当の記憶かのように思いこませた。


「うっ……うう」


 クロネコの頭の中で、不思議の国のアリスのページがバラバラと捲られていきます。そしてついに気がつきます、ルールーの思い描いていた、クロネコの用途に。


『君は、不完全な不思議の国のアリスとして歩き回り、出会ったものに不具合を起こせ。そうすればこの世界に、私が科学で干渉する隙が増える』


 世界を一つのコンピュータだと喩えるなら、クロネコはウイルスであったのです。つまり……エリーが間違った記憶を持ってしまったのも、クロネコというウイルスが持っている『不完全化特性』のせい。


「僕のせいで……エリーは猫鬼になってしまったのか」


 クロネコと出会った時のエリーは、砂に埋もれた本でした。クロネコが、下に本があることに気が付かず座ってしまったせいで接触がおこり、不完全化して猫鬼となったのです。


「ごめんね……エリー」


 どうしようもない、後悔の念。一冊の本であったエリーが生物としての苦しみを味わい死んでしまったのは、自分のせいだと。


「ごめんね、ごめんねエリー」


 クロネコは、ボトボトと涙をこぼします。僕と会わなければ、エリーはあんなにも痛い思いをすることはなかった。僕と会わなければ、エリーは死という恐怖を味わうことはなかった。


「ごめんね……あれ?」


 クロネコが気づいた、不思議。猫鬼となったことで苦痛を感じてしまう肉体を得たはずのエリーのことを思い返すと、笑顔ばかりが思い出されるのです。思い出の中のエリーが、クロネコに微笑みかけているのです。何度、何度振り返っても、エリーが嬉しそうに笑うのです。


「もしかして……エリーは僕といて楽しかったの?」


 そう思ったとたん、視界に罅が入り、叩きつけられた鏡のように砕け散りました。クロネコは、ナターシャの作り出した幻覚を打ち破ったのです!


「エリーに会いたい。うん、きっと会える」


 クロネコは、ナターシャを睨みます。


「僕は、まだエリーを殺していない――。もし、エリーが僕のせいで生まれたならば、僕が殺すまで死なないはずだ!」


 クロネコは、おびただしい数の猫鬼に囲まれていました。


「僕はもう、強くなれないだなんて思わない」


 ゆっくりと三センチほど伸ばした、両手の爪。クロネコ、決死の戦いがはじまろうとしていました。


「僕は、強い」


 一枚しかない黒い翼で羽ばたいて、どこかへ飛んでいくナターシャの後姿を見てクロネコは覚悟を決めます。ここにいる猫鬼を、全て殺してでもエリーを探しに行くと。

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