29『聖神ハーヴィ』
それは、ルールーにとって道具でしかない猫鬼に、多量の褒美が与えられるほどの大手柄でした。エリーに殺されたハーヴィの死体を持ち帰り、海へと注ぎ込む機械へ放り込むことなくルールーへと報告に来たのです。これは、一般的な猫鬼の知能レベルから考えると、奇跡に近いできごとでした。
「蝋化した猫鬼を見るのは、はじめてだな」
蝋化しない生物、猫鬼。その猫鬼の一種であるはずのハーヴィの死体が蝋化していたのです。
「なるほど」
ルールーは順序立てて考えます。これは、丁寧に分析すべき事象であると感じたからです。
推測するに蝋化のきっかけは、ハーヴィに渡した不思議の国のアリスの原典の一ページ。ページにクロネコのいる場所まで案内されたことでハーヴィの脳に埋め込んだ本と、ハーヴィの五感がリンク。その思考パターンが、この世界における人間的行為の最たるものとも言える不思議の国のアリス……つまりは小説という存在に支配され、猫鬼になった際に消失したはずの人間性が蘇った……故に、ハ―ヴィは蝋化した…………。
ルールーは、この予想外の展開を必然性のある出来事としてとらえていました。なぜならば、いつも蝋人間を爪で切り分けて運んでくる猫鬼が、ハーヴィの死体だけは細かくしないままで持ってきたからです。壊さぬように、四匹で協力してまで。
「頭は、綺麗だな」
肩から左胸にかけて大きく裂けているのは、エリーが肩口にツムガリを叩きこんだからです。体内が空っぽなのは、エリーが内臓を食いつくしたからです。
「あれを、使ってみるか」
研究室にハーヴィの死体を運び込んだルールーは、床下に隠してあった鉛製の金庫から一冊の古びた本を取り出しました。
「さて、科学者の腕の見せ所だ」
肉体的な不足部は、手柄を立てた猫鬼たちを殺し、移植することで補うことにしました。その際心臓を移さなかったのは、さきほど取り出した本を心臓の代わりとするためです。それは、はるか昔、世界がまだ球体であったころ……十二番目につくられた聖書。
手術には七日間を要しました。丁寧に縫い胸を閉じた後、ルールーはハーヴィを起動させるために、軽い電流を流します。
「あうっ! あ…………」
「おはようハーヴィ。あたりまえのように目覚めたな」
「あ……」
「気分はどうだ、ハ―ヴィ。痛覚はもうないはずだが」
「私は……死んでいたのですか?」
体を起こしたハーヴィは、複数の猫鬼の部位を移植したせいで、一部、元の色と違う色の肌があることを見て察します。
「そうだ」
「ということは、ルベローチェも」
「多分、だめだろう」
「腹が、たちますね」
「誰にだ」
「ルベローチェを殺した者にも、あなたにも、私にも」
「好きにするといい、今の君は裏切りの権利を持っている。本能レベルの禁則事であった私への危害を加えることも、可能なはずだ」
心臓に埋め込まれた本は、世界で十二番目につくられた聖書。つまり、原典ではないということです。でもこれには深い意味がありました。十二は月の数であり、一年の終わりを示す。そして、世界で最も著名な裏切り者であるイスカリオテのユダを示す。ルールーは、ハーヴィを終わりへと追いやることで時間の呪縛より開放し、裏切りの機能を搭載することで、世界一自由な猫鬼をつくりあげたのです。
この改造が可能であったのは、ハーヴィの頭部が無事であったため。脳に埋め込んだ、人工知能ビルの執筆したアリスシリーズの続編、七万六千九百五十五パターン目が無事であったからです。
「もし私が、ユダではなくマティアであったらどうするのですか」
「それは、くじ運が良いのか悪いのか、ということか」
「かもしれませんね。私はこれから、大きな賭けに出ようとしていますから」
ハ―ヴィの意識は、まるで質の良い睡眠をとった後かのようにはっきりとしています。
「体はどうだ」
「死ぬ前より、良くなっている気がしますね」
ハーヴィが生前の記憶を継ぐことができたのは、奇しくも蝋化したおかげでもありました。
「君はクロネコを殺せるか?」
蝋となったことで、魂が肉体から一度も離れることなく固定され続けていたのです。
「エリーも」
死ぬ前に抱いた、決定的な殺意もそのままに。
「エリー? ああ、そうかクロネコは旅の連れを得たのか。気に入った猫鬼でもペットにしたか?」
「私が殺されたということは、クロネコは私の持っていた不思議の国のアリスの最後の一ページを手に入れたということであると思います」
ハーヴィは、自分がページを食べたことはルールーに伝えませんでした。
「そうだろうな。さしずめ、今のクロネコは完全体と言ったところか。知っていると思うが、この世界では聖書よりも不思議の国のアリスが上位にある。どうあがいても、今の君では勝てないよ」
「どうすれば勝てますか」
「トカゲのビルだ」
「トカゲ? ああ、不思議の国のアリスの登場人物ですか」
「人物ではない、トカゲだよ」
ルールーは卓上コンピュータを起動すると、以前研究所として使用していた建物に残してきた人工知能『ビル』に、アクセスします。
「これは元々、ルイス・キャロルを模した人工知能だったものだ。今は、ビルと呼んでいるがね」
「これを、私に搭載するつもりですか」
「ビルの書いたものをインストール、といった感じだろう。君の心臓とした聖書には、白紙を数ページ足しておいた。ビルに、アリスシリーズの新作を記述させるためにだ。今度は、短編でな。さあ、どうする? ビルがヒット作を生み出す確率は今のところ、七万六千九百五十六分の三だ。それ以外は駄作、つまりは記述することで君が弱体化する確率は――――」
「よく喋りますね。大丈夫ですよ、安心してください。私は、今も、この先も、あなたの提案を断る気なんてさらさらないですから」
エリーという名の化け物を倒すために、ハーヴィは再び、自分自身の全てを投げ出す覚悟でした。




