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24『秘匿の恋人へ』

 ルールーの研究室には港を観察するための、真鍮製の双眼鏡がありました。最後の船が出航したのはもう百五十六年前。双眼鏡にも埃が積もっています。


「私はもう人間ではないと仮定するならば――」


 陸と、海の端での時間の流れの差を考えるならば、そろそろ最後の観測隊が下宇宙へと落下したころであろうとルールーは推測します。そしてその推測は、概ね正解でした。最後の船が下宇宙へと落ちていったのは陸の時間で三日前、海の端の時間で言うと百二十年と二百五十日前であったからです。


「空と海の違いは、なんだろうね」


 海岸に目をやれば計測器を通さなくとも、三日前よりも水位が下がっていることがわかります。このままいけばいずれ、海は消えてなくなってしまうでしょう。

 猫鬼に世界中から運ばせている蝋人間の収穫ペースも、年々下がっている。たとえ全てかき集めても、干上がった海を埋めるには足りないことも最初からわかっている。ルールーは時々、賢すぎる自分に疲れてしまうことがありました。


「まるで星の王子様だと、笑えればよいのだが」


 平面世界の観測に航空機を使用できた時期に、ルールーは世界の大きさを計測しました。その結果、海も陸地も球体だったころに比べてずいぶんと小さくなっていることがわかったのです。


「君は、船で行くべきだと考えた」


 平面世界の端を越えて世界の外に出てしまった物質は落下し続け、下宇宙の闇の中に消えてしまう。そして、海は外へと流れ続けている。この事実を発見したのは、ルールーの恋人であった航海士でした。


「そして、君の発見を知った人類は絶望した」


 人類救済のための船を私物化して不幸な事実だけを蒐集し、人々の生きる意欲を削いだ…………平面化した世界で生きる人類の不安をごまかすためには刺激的な見世物が必要だと考えた者により、ルールーの恋人は大罪人に仕立て上げられてしまいました。恋人は『無翼鳥(むよくちょう)』という、翼のない鳥、つまりは、偽物の鳥という意味を込めた不名誉な称号を与えられ、数か月に及ぶ公開拷問の末に処刑されてしまったのです。


「最初から結論を所持しているくせに、拷問するとはな。まったく、まったくもって人類は悪趣味だ」


 元々、誰にも明かしていない恋愛であったこともあり、ルールーは無翼鳥の恋人であることを誰にも知られないまま、処刑中継を当時の同僚と一緒に見ていました。死んだ後、聞き心地の良いメロディとともに細切れにされていく恋人を見ながら飲んだ珈琲の味は、今でもはっきりと覚えています。


「グアテマラ産の豆だったな。皮肉にも君が一番好きな珈琲だった」


 アリスの相手をせず、研究室にこもってもう五日。その間、ルールーがやったことと言えば、双眼鏡を覗くか、物思いにふけるか、珈琲を飲むか……くらいでした。


「私にとって恋人とは、なんだったのだろうか」


 今まで恋について深く考えたことがなかったのは、恋が、ルールーの研究対象として適していなかったからです。恋愛という個人間規模の行為は、ルールーの探求心の受け皿として小さすぎる――――と、当時は本気で思っていたのです。


 でも、一年ほど前にそれが間違いであることに気が付いてしまいました。


 恋人を失ったことが、ただ、哀しかったこと。

 恋人を悪魔のように扱われたことが、ただ、悔しかったこと。


 ルールー、人生初の後悔でした。

 

 恋人が処刑されてから、もう二百年以上過ぎているのに、まだ、ささくれのように突き刺さっている、想い。寂しさという名の感情とともに、ルールーはようやく理解できたことがありました。


「そうか、それで、そうなのか」


 自分がこの、ひっくり返したおもちゃ箱にガソリンをかけて火をつけたような世界の中で科学者然としていられるのは、恋愛というファンタジーのような現実を経験していたからなのだと。

 夢は現実になりうる、ならば、現実も夢になりうる。必要なのは、いつか夢から醒める日がくるということに対する、覚悟だけなのだと。


「もうすぐ、クリスマスだ。暦がまだ生きているのならばな」


 ルールーは外の景色をよりはっきりと見るために、室内と外の温度差で結露している窓ガラスを拭いたのです。




 周囲の科学者が、皆、死んでしまったころ。ルールーは一度だけ、日記に恋人のことを記したことがありました。


『私の恋人が唯一、正しく称賛されたのは、陸からそう遠くない場所にある海溝を発見したときだけである。このパンケーキのような形をした陸地が、元はあの細長い島国、日本であった可能性を発見したのだ。だが、私は彼女の全てを称賛したい。そのような言葉を私は吐き出したい。吐き出せるようになりたいのだ。だが私には、それは不可能なことである。どうしようも、ないのだ。』

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