第35話:ヤクートマートの特売日と、新人のスライディング
「怜先輩っ! 大変です! 今月のジパングセクタの営業ノルマ、あと三日で目標値の四十パーセントです! 詰みましたっ!!」
オフィスに悲鳴が響き渡る。声を張り上げたのは、今年ヤクートの超難関大学を首席クラスで卒業し、ジパング支社へ配属されてきた新人営業マンのヤクート上流サピエンスだ。エリートの面影はどこにもなく、死にそうな顔で怜のデスクに泣きついてくる。
「落ち着け! 詰んでねぇ、まだ三日あるだろ! お前、最難関大出のプライドはどうしたんだよ!」
ペラペラの営業実績表を手に、怜は胃を押さえながら叫んだ。
「プライドなんてジパングの泥臭い市場に叩き潰されましたよ! だから俺……学んだんです。ジパングセクタで生き残るための必殺技を……!」
言うや否や、新人はオフィスの床に向かって勢いよく飛び込んだ。
キュキュッ、と靴底と膝が摩擦音を奏で、彼はそのまま床の上を十メートルほど綺麗に滑走——見事な『スライディング土下座』を決めてみせた。
「見ましたか怜先輩! 誠意の摩擦係数ゼロ! これで次の取引先を攻略してみせます!」
「お前は何を習得してんだよ! ズボン破れるだろ! 最難関大の講義で土下座の滑走距離とか教わったのか!?」
◇
「——というわけで、会社の新人(ヤクート大卒)が完全に壊れててさ……」
夕方。安売りスーパー『ヤクートマート』の店内。夕飯の食材を物色しながら怜が溜め息をつくと、隣を歩く歩実が爆速フリックの手を止めて目を輝かせた。
「すごーい! 私も爆速フリックしながらスライディング土下座の練習しようかな! ノルマ達成できそう!」
「お前はまず自分のヒモ生活のノルマを達成しろ」
「ちょっとサピエンスの皆様! 通路の真ん中で立ち立ち立ち立ち止まらないでくださる!? 本日は『ソルティ・カザフ塩チョコ』が特売なんですのよ!」
甲高い声が響く。声の主は、真っ赤なスーパーのエプロンを身にまとったヘレナだ。メイン作品では最上流サピエンス『スリー・グレイス』として恐れられているはずの彼女が、レジ前でやけにノリノリで特売ポップを掲げている。
「あ、ヘレナさんだー! 今日もバイトお疲れ様ー!」
「誰がバイトですか! クビ……ではなく、ジパングセクタでの現場研修ですわ! ほら、半額シールを貼りまくりますから早くお買いになられて!」
「解けないわ……」
カートを押しながら現れた由奈が、ジト目でヘレナを見下ろす。
「ヤクート最上流の権力者が、ジパングのスーパーでスマイルを売っているこの構造……。ジパングサピエンスの社会構造として破綻しているわ」
「うるさいですわね! 買わないならあっちへ行きなさい! 私のシフト時間が終わってしまうでしょうが!」
「まあまあヘレナさん、今夜は塩チョコの麻婆豆腐にするから半額のやつ三つちょうだい!」
歩実が屈託のない笑顔で手を伸ばすと、ヘレナは「フンッ」と鼻を鳴らしつつも、手際よく半額シールを貼って手渡してくれた。
メイン作品では色々重い展開が続いていても、ここジパングセクタでは全員がちょっとポンコツで、たくましく生きている。
「よし、今夜の夕飯は塩チョコ麻婆豆腐だな。……おい歩実、それ以上カゴに高級アイスを入れるな! 電気代もかかるんだからな!」
「えーっ! 特売なんだからいいじゃん怜兄のケチー!」
三人の賑やかな口喧嘩とヘレナのレジ打ちの音が重なり合い、ヤクートマートの夕暮れは今日も平和に過ぎていくのだった。
【第36話に続く】




