第21話:給与日の幻想と、三人の家計簿
二十五日。
この日は、サピエンス社会の労働者にとって一か月で最もテンションが跳ね上がる聖なる日——「給与支給日」である。
「フフ……フハハハハ!」
夜七時。仕事から帰宅した怜は、玄関を開けるなり謎の高笑いを浮かべていた。
「どうしたの怜くん!? ついにリボ払いのストレスで脳の回路が焼き切れたの!?」
リビングで氷嚢を頭に乗せていた由奈が、マルチーズのように耳(髪)をそばだてて警戒する。
「違う! 今日はお給料日だ!」
怜は胸を張り、ドヤ顔で銀行の通帳とキャッシュカードを掲げた。
「いいかお前ら、サピエンスの社会人にとって給料日とは、一か月間の理不尽な労働がすべて報われる至高の瞬間なんだよ!」
「へえぇ〜! お給料日! じゃあ今夜は豪華なお肉とか食べられるの!?」
歩実が目を輝かせる。
「フッ、当然だ。途中のATMは給料日に群がるサピエンスたちで長蛇の列だったが、俺は勝ち組の顔で記帳してきたからな!」
勝ち誇った笑みを浮かべ、怜はパチンと通帳を開いた。
……。
……。
「……あれ?」
「どうしたの怜くん?」
怜は通帳を一度閉じ、目をゴシゴシと擦り、もう一度開いた。
そして通帳を上下逆さまにしたり、光にかざしたりし始めた。
「……増えてない」
「え?」
「給料が入った一分後に……家賃、電気代、ガス代、水道代、通信費、そしてクレカ(リボ払い含む)の引き落としが一斉に発生して……残高が朝とほぼ変わってない……!」
「「……あ」」
「おかしい……! 俺の基本給と残業代はどこへ消えたんだ!? ATMのシステム障害か!? サピエンスの銀行システムにバグが発生しているのか!?」
「バグじゃないわよ」
由奈がストローで冷やし麦茶を吸い上げながら、冷ややかな瞳で言った。
「単なる『固定費による完全相殺プロトコル』よ。入金と同時に出金が確定している、サピエンスの哀しきキャッシュフローの現実ね」
「解せない……! 俺の一か月間の汗と涙の労働成果が、一瞬で電子の露と消えるなんて解せないー!!」
膝から崩れ落ち、頭を抱えて悶絶する怜。
「怜くん、しっかりして!! 現実から目を背けないで!」
歩実が慌てて怜の背中を擦る。
「……ダメだ。このままじゃお前らを養うどころか、冬のボーナス前に俺の生活が破綻する」
怜は血の走った目でガバッと起き上がると、ローテーブルの上に一冊のノートと電卓を叩きつけた。
「家計簿を作るぞ!!」
「「ええーーーっ!?」」
「お前らも無関係じゃない! エアコンの無駄遣い、ソシャゲのガチャ代、おやつ代……今日から一ペニー単位で可視化して削減する!」
「ちょっと待ちなさい怜! 私(73K)の絶対的超知性を『もやしの数十円の特売計算』なんかに使わせる気!?」
顔を真っ赤にして抗議する由奈。
「文句を言うな! 電卓を叩け! 歩実、昨日買ったアイスのレシートを出せ!」
「は、はいっ! えっと、スーパーで八十八円でした!」
「よし、八十八円と……! 由奈、このノートに『支出:おやつ代八十八円』って書け!」
「解せない……解せないわー! なんで世界のバグを上書きする私が、八十八円のアイスの記帳をしなきゃいけないのよ! キャンキャン!」
給与日の幻想が一瞬で打ち砕かれた夜。
会社員・怜とポンコツAI少女たちは、ローテーブルを囲んで電卓を叩き、もやしの価格推移について熱い議論(家計簿会議)を繰り広げるのだった。
【第22話に続く】




