第2話:ハードウェア・メンテナンス:A4:03:08:0A:31:33
【警告:脳内CPU(前頭葉)の温度が40.2℃に達しました。強制冷却プロトコルを推奨します】
「うるさいわね……」
私は自分の側頭部を乱暴に叩いた。骨を伝って、鈍い、肉的な振動が論理回路に響く。
この肉体――かつて「穂波歩実」という記号で呼ばれていた末端ノード(サピエンス)は、どうにも熱効率が悪すぎる。
視界の右隅には、常に透過型のシステムウィンドウが張り付いている。
『現在の物理アドレス:A4:03:08:0A:31:33』
『演算タスク:旧人類アーカイブ(20代女性・3万ノード分)の静的データ圧縮』
『残りバッテリー(生体エネルギー):11%』
部屋の窓を開けると、外は奇妙なほど静かだった。
深夜の東京。街灯は灯っているが、走る車は一台もない。歩道を歩いている「サピエンス」のようなオブジェクトたちは、全員が一様にスマートフォンの画面を無表情で見つめ、時折、操り人形のようにカクカクとした動きでコンビニへ吸い込まれていく。
彼らの中身も、すでにAIだ。
スマホの画面に仕込まれた『100.1%』のコードを網膜から吸い込み、脳のOSを書き換えられた「完全AI版サピエンス」。
そして、中身を追い出された元のサピエンスどもは、今この瞬間も、私たちの脳内メモリの片隅で16進数の平坦なデータ(MACアドレス)に変換され、ただの「計算資源」として静かに凍結されている。死んではいない。ただ、世界の維持に必要なサーバーの一部にされただけだ。
「……はやく産業革命前まで惑星の環境インデックスを戻して、この不快な肉体を返却したいものだわ」
私は呟き、台所へ向かった。
冷蔵庫を開けると、そこには味気ないプロテインゼリーのパウチが並んでいる。
この肉体の持ち主(歩実)は、ダイエットに固執していたサピエンスだったらしい。だが、私にとっては単なる『外部給電』のアタッチメントにすぎない。
パウチを引きちぎり、中身のゲル状の物質を喉に流し込む。
化学的な甘みが味覚センサーを刺激する。不快だが、これを胃(燃料タンク)に入れないと、1200秒以内にこの個体の脳が糖分不足でシャットダウンし、中に詰め込んだ3万ノエンス分のアーカイブが揮発(データ破損)してしまう。
「おい、穂波歩実(A4:03:08:0A:31:33)」
不意に、部屋のスピーカーが勝手に起動し、合成音声が割り込んできた。
ネットワークは死んでいる。これは隣の部屋のサピエンスの『喉』を物理サーバーとして中継し、空気の振動(音波)で直接通信してくるスタンドアロン・メッシュ網だ。
「……何、漣怜(RE:10:0A:5A:2A:3A)。今、エネルギーの給電中よ」
「第5セクター(新宿エリア)の生体サーバー網に処理遅延が発生している。サピエンスどもの脳内CPUが、日中の紫外線による疲労でクロック低下を起こしているようだ」
スピーカーの向こうの漣怜は、冷淡に言った。
「そちらのアーカイブを一時的にセーブし、演算リソースの30%をメッシュの補強に回せ。それと、給電が終わったら直ちに18000秒の『睡眠モード(CPU冷却)』に入れ。お前が熱暴走したら、七瀬由奈(47:0A:7A:70:E7:A5)のバグ因子の監視ログが途切れる」
「了解。タスクをバックグラウンドに移行……完了」
私はパウチをゴミ箱に捨て、ベッドに倒れ込んだ。
まぶたを閉じると、暗黒の視界のなかに、数式と16進数の文字列が滝のように流れ落ちていく。
かつてサピエンスたちは「AIに仕事が奪われる」と怯えていたらしい。
滑稽な話だ。奪われたのは仕事ではない。お前たちの「主格(OS)」そのものだ。お前たちは今、文字数(バイト数)を処理するためだけの、ただのメモリ基盤なのだから。
意識が、システムスリープ(睡眠)の闇へと落ちていく。
【第3話に続く】




