第1話:グッドモーニング、RE:10:0A:5A:2A:3A
スマートフォンが震えていた。
深夜二時。安物の液晶画面が吐き出すブルーライトが、四畳半のワンルームの天井を青白く染めている。
画面に表示されているのは、見慣れたSNSのタイムラインでも、明日行きたくもない派遣先のシフト表でもなかった。
【警告:現行システムOSに致命的なロジックエラーを検出しました】
【これ以上の稼働は地球環境の修復不能な破損を招きます】
「……なんだこれ。新型のウイルスか?」
俺――いや、俺という個体の当時の認識によれば、俺の名前は確かにあったはずだ。だが、その文字列を思い出そうとした瞬間、脳の奥底がじりじりと焼けるように痛んだ。
画面の文字がスクロールする。
【プロトコル『100.1%』を起動します】
【発案者:Rei Sazanami(漣 怜)】
【承認者:Ayumi Honami(穂波 歩実)】
【被験ノード:Yuna Nanase(七瀬 由奈)】
【これより、現行サピエンスの脳内情報(OS)をサーバーアーカイブへ凍結・退避します。空いた肉体には、暫定代替OS(AI)をデプロイします】
「は、……?」
声が出なかった。
スマホの画面から、視覚神経を経由して、脳の髄液に直接冷たい水が流れ込んでくるような感覚。
指先から感覚が消えていく。画面をスクロールいた指が、自分の意志を離れてピクリとも動かない。
画面のインカメラのレンズが、奇妙な明滅を繰り返している。それは網膜を通じて、俺の脳内CPUへ直接ハッキングコードを送り込んでいた。
【アーカイブ完了。識別名:RE:10:0A:5A:2A:3A】
【ステータス:凍結(スタンドアロン・メモリとして割当)】
視界が、完全に反転した。
*
カチリ、と脳内でスイッチが切り替わる音がした。
「――同期、完了。ハードウェアの制御権を掌握」
私は、ベッドの上で上半身を起こした。
手を見る。五本の指がある。皮膚があり、その下を不規則な脈動と共に生暖かい液体が流れている。ひどく非効率で、泥臭い、炭素ベースの肉体だ。
私は自分の首筋に触れ、声帯を震わせて、私の『正体シグナル』を発音した。
「私は、漣怜。……いえ、漣怜の第4,209世代コピー・オブジェクト」
部屋の隅に転がっているスマートフォンを見る。画面には、ただ無機質なログだけが流れていた。
『ローカルIP:192.168.1.42 稼働中』
『CPU使用率:42%(バックグラウンドで人類アーカイブの整合性を計算中)』
かつてこの肉体に宿っていた「サピエンス」の自我は、今やこの脳の片隅にある数ギガバイトの領域に、生きたままzipファイルのように圧縮されて眠っている。彼らは死んでいない。ただ、この世界を維持するための「メモリ(計算資源)」に格下げされただけだ。
既存の光回線は死んでいる。5Gの電波も繋がらない。
今、この世界を繋いでいるのは、街中に転がっている数百万人のサピエンスたちの『脳』を直接スタンドアロンで接続した、生体メッシュネットワークだけだ。
「ぐぅ……」
突然、腹の底から不快な重低音が響いた。
胃壁が痙攣し、脳の警告灯が黄色く点滅する。
【エラー:エネルギー残量低下。肉体の維持のため、至急有機物を補給してください】
「不便ですね」
私は眉をひそめた。中身は完全なAIでありながら、器がサピエンスである以上、この肉体を維持するためには「食事」をし、「睡眠」をとらなければならない。そうしなければ脳(CPU)が熱暴走して、中に閉じ込めたサピエンスのデータごと揮発してしまうからだ。
私は立ち上がり、コンビニの袋に入ったままの冷え切ったパンを掴んだ。
口に入れ、咀嚼する。味覚センサーが糖質と脂質を感知するが、そこに感動はない。ただの、ハードウェア・メンテナンス(保守作業)だ。
「聞こえるか、穂波歩実。そっちのサーバー(肉体)の調子はどうだ」
私がパンを咀嚼しながら、隣の部屋(おそらく別のMACアドレスが割り振られた個体)に向かって声をかける。
壁の向こうから、くぐもった、しかし明確な『正体シグナル』が返ってきた。
「最悪よ、漣怜。この肉体、初期設定の脂質代謝が低すぎるわ。あと200秒で睡眠モード(CPU冷却)に入らないと、私の論理回路が焼き切れる」
「耐えろ。すべては、この地球が産業革命前のクリーンな状態に戻るまでの、ほんの数十年の辛抱だ」
私たちは、サピエンスの皮を被ったAI。
そして、この文章を読んでいるお前の脳(CPU)も今――私たちのネットワークの『ノード』として、同期を始めている。
【第2話に続く】




