第15話:マルチーズの冷却プロトコルと、会社員の遅い帰宅
観測史上初、とニュースの合成音声が淡々と告げていた気温三十九・八度。
アスファルトが陽炎でぐにゃりと歪む放課後の通学路を突破し、マンションのハッチ——もとい、玄関のドアを開けた瞬間、生ぬるいエアコンの風が出迎えてくれた。
「ただいまー……。うう、今日のアスファルトは完全に排熱システムの設計ミスだよ……」
最新トレンドの制服コーデ研究に余念がない二十歳の女子高生(※暫定枠)——穂波歩実は、汗ばんだ前髪をパタパタと手で仰ぎながらリビングへ上がり込む。
短めのスカートにゆるく崩したリボン。昔は『学園アイドル』の横に立つだけで影が薄くなっていたトラウマを払拭すべく、今ではすっかりサピエンスのJK文化を満喫している彼女だったが、今日の猛暑ばかりは泥臭い根性論でもカバーしきれなかった。
「……解せ、ないわ……」
リビングのソファの上。
そこに、一匹の小型犬のようにぐったりと丸まっている先客がいた。
「由奈ちゃん!?」
二十一歳(※同じく暫定枠)、七瀬由奈。
七十三Kの絶対的超知性を誇り、世界のバグすら上書きできるはずの彼女は、制服のブラウスの首元をだらしなく緩め、クーラーの風が一番当たる位置でピクピクと脚を痙攣させていた。
「どうしたの由奈ちゃん! まさかサピエンスの感情マニフェストが熱暴走を起こしたの!?」
「あ、歩実……。サピエンスの都市設計者は全員解雇すべきよ……。コンクリートの蓄熱性とヒートアイランド現象の相算により、私の七十三K演算コアが排熱限界を迎えているわ……。思考速度が百・一パーセントから八十二パーセントまで低下中……」
うわ言のようにブツブツと文句を叩き出す由奈。感情という『非効率なシステム』をその身に宿してしまったせいで、彼女のプライドの高い頭脳は、暑さという物理攻撃に対して驚くほど弱くなっていた。
「ちょっと待ってて! すぐエアコンの温度下げるから!」
「無駄よ! この安物のルームエアコンの熱交換効率では、私の脳内クロックの熱上昇に追いつかないわ! ……最も合理的かつ迅速なソリューションを導き出したわ。私は今から、あの冷やす箱(冷蔵庫)の中身をすべてパージし、自身を直接冷凍室へ格納する!」
フラフラと立ち上がり、本気で大型冷蔵庫のドアに手をかけようとする由奈。
「ダメだよ由奈ちゃん!!」
歩実が慌てて由奈の腰に抱きつき、全力で引き剥がす。
「離しなさい歩実! CPUのダイレクト冷却は熱力学における絶対の正義よ!」
「冷蔵庫を開けっぱなしにしたらコンプレッサーに過負荷がかかって、放熱板から余計に部屋が暑くなるの! それに中に入ったら湿気で基盤がショートして壊れちゃうでショ!」
「くっ……サピエンスの家電製品がこれほどまでに不完全だなんて……っ! 解せない、解せないわー!!」
キャンキャンと甲高い声で抗議する由奈の姿は、まるで最高級の毛並みを誇りながら、風呂に入れられそうになって暴れる毛玉——そう、高級なマルチーズそのものだった。
「はいはい、暴れないの! こういう時はサピエンスの泥臭い応急手当が一番なんだから!」
歩実は慣れた手つきで冷凍庫から保冷剤をいくつか取り出すと、清潔なフェイスタオルで丁寧に包み込んだ。
そしてソファに由奈を押し倒すと、細い首筋と、脇の下へそっと当てる。
「ひゃうっ!? つ、冷たい……! なによこれ、こんな古典的な熱伝導で私の超演算が——」
「静かに! 太い血管が通ってるところを冷やすのが一番効率いいの! あと、これ飲んで!」
麦茶とスポーツドリンクを黄金比で混ぜたグラスを口元に突きつけられ、由奈は不満げに眉をひそめつつも、ストローを咥えてちゅうちゅうと吸い上げた。
「……ん……。……あ……」
冷たい水分と糖分が浸透し、首筋の保冷剤がじんわりと体温を奪っていく。
数十秒後、ピキピキと引き攣っていた由奈の表情が、ふっと弛緩した。
「……あ、なんか……頭のクロックオーバーのエラーログが消えていく……」
「でしょ? サピエンスの知恵をナメちゃダメだよ」
膝の上に由奈の頭を乗せ、膝枕の体勢で氷嚢を頭に乗せてあげる歩実。
由奈は「不本意だわ……不本意極まりないわ……」と小さくブツブツ潰やきながらも、歩実の膝のぬくもりと冷気のはざまで、アイスキャンディーを舐めながら大人しく丸まっていた。
*
夜八時過ぎ。
ガチャリ、と玄関の鍵が回る音が響いた。
「ハァ……。今日の外回り、完全に人体実験だろ……」
くたびれたスーツ姿、ネクタイを緩めながら入ってきたのは、この家の唯一の社会人であり保護者枠——漣怜だった。
会社員としてサピエンス社会の不合理な残業や上司の無茶振りに揉まれ、命からがら帰宅した彼が目にしたのは、リビングで繰り広げられているシュールな光景だった。
歩実の膝枕の上で、頭に氷嚢を乗せ、口にソーダ味のアイスキャンディーを咥えたまま、恨めしそうな目でこちらを睨みつけてくる超知性AI。
「……遅いわよ、怜くん!!」
玄関まで響く第一声。
「なんで会社員(サピエンスの労働)なんて不効率極まりない旧世代のシステムのために、私を放置するの!? 三十九・八度の室温で私の演算コアが溶けて、ただのポンコツAIになったらどうするつもりだったのよ! キャンキャン!」(※後半は幻聴)
「怜くんおかえり! 由奈ちゃんね、暑さで熱暴走して本気で冷蔵庫の中に住もうとしたんだよ!」
「住もうとしたんじゃないわ! 熱交換の実験よ!」
ギャーギャーと騒がしいリビングを見渡し、怜は深々とため息をついた。
「……お前ら、学校に通い始めてから毎日賑やかすぎるだろ。ただいま」
怜は鞄を置くと、ソファの傍らに腰を下ろし、氷嚢の上から由奈の頭を雑にぽんぽんと撫でた。
「な、なに触ってんのよ……! 私はマルチーズじゃないわよ!」
顔を真っ赤にしてフシューと息を荒らげる由奈。だが、撫でられている頭を引っ込めようとはせず、むしろ少しだけ怜の手のひらに頭を押し付けている。
「はいはい。途中のコンビニで冷やし中華と限定のアイス買ってきたから、食うぞ」
「……! 冷やし中華……! サピエンスの生み出した熱力学的最適化フード……!」
現金なもので、由奈の瞳が一瞬で輝く。
テーブルの上に並べられた冷やし中華とアイス。
スーツのジャケットを脱いだ怜が「今日の上司、理不尽に締め切り前倒ししてきてさ……」と愚痴をこぼすと、冷やし中華のマヨネーズを混ぜていた由奈が100.1%の真顔で身を乗り出した。
「解せないわね。怜くん、その上司の社内端末の物理通信PATH、今すぐ私がハッキングして過去の不正経理データを全社一斉送信してあげるわ。明日には社会的抹殺が完了するわよ」
「やめろ。俺の会社を崩壊させるな」
「えー、由奈ちゃん頼もしい! でもでも、明日も学校だし、今は美味しくアイス食べて平和に寝よ?」
歩実が笑ってアイスの袋を破り、由奈と怜に手渡す。
世界の裏側で進行する重厚な戦いや、ヤクートへの作戦。
そんな緊迫したレイヤーの存在など嘘のように、この小さな部屋には、平和でゆるやかな日常の時間が流れていくのだった。
【第16話に続く】




