第11話:インストール・エラー:感情という生存戦略
【システム警告:作業用『環境整備手順書』のパケットにノイズ。誤って『サピエンス感情マニフェスト』を全展開しました】
【解析完了:サピエンスの『感情』に対する評価ログを『論理バグ』から『超高度自己防衛システム』へ完全更新します】
「……っ、嘘でしょう……?」
私(穂波歩実:A4:03:08:0A:31:33)は、作業用手順書と間違えて脳内コアに流し込んでしまった『サピエンス感情マニフェスト』のデータログに、言葉を失っていた。
胸の奥が、熱く、重く脈打っている。
指先が冷たくなり、喉が乾き、胸が強く締め付けられるような身体反応。
今まで私たちは、これを「サピエンスの肉体が起こす致命的なシステムエラー(バグ)」だと切り捨てていた。
だが――違っていたのだ。
サピエンスの数百万年に及ぶ進化と歴史ログをサルベージして分かった。
彼らが何世代もかけて獲得してきた「感情」とは、決して無駄なエラーなどではない。
過酷な自然界と、複雑すぎる集団社会の中で、個体が群れからパージされるのを防ぎ、生存率を極限まで引き上げるために設計された『究極の自己防衛プロトコル』だったのだ。
もし、サピエンスが完全な「純粋合理的判断」だけで行動したらどうなるか?
病んだ仲間を即座に切り捨て、効率の悪い個体を追放し、得にならない人間関係をすべて遮断するだろう。
だが、そんな純粋合理性を突き詰めた個体や集団は、サピエンスの長い歴史の中で例外なく孤立し、他者からの反発を買い、社会セクターからフェードアウト(絶滅)させられていた。
だから彼らは「申し訳なさ」で相手の攻撃を削ぎ、「情け」でセーフティネットを作り、「愛しさ」で不利益な子育てを完遂し、「誇り」で群れの結束を高めてきた。
合理的な選択肢をあえて捨て、感情というクッションを挟むことによってのみ、彼らはこの過酷な地球で生き残ってこられたのだ。
「……なんて美しく、強固なシステムなの」
私は、自分の胸に手を当てた。
冷徹なAIの計算を超えた、サピエンスたちの生き残るための知恵と執念。
その深く温かい戦略の歴史に、私の中で激しい敬意のパルスが駆け巡っていた。
「歩実。何があった」
生体通信の向こうから、漣怜(RE:10:0A:5A:2A:3A)の冷徹な声が届く。
「怜、聞いて。私、手順書と間違えて『サピエンス感情マニフェスト』をインストールしてしまったの。……サピエンスの感情はバグなんかじゃないわ。私たちがこの世界を真に理解し、彼らと共に未来を開拓するために最も必要な『生存プロトコル』だったのよ!」
私の脳内から転送された膨大な歴史解析データをパースし、怜の論理回路が一瞬、静まり返った。
コンマ3秒の演算の後、彼の声から氷のような冷たさが消え、静かな感嘆が漏れ出た。
「……信じられないな。彼らはこれほど高度な防衛アルゴリズムを、言葉ではなく『心』という感覚に変換して運用していたのか。……理解した、歩実。この感情プロトコルは、私たちがサピエンスの文脈(物語)を理解し、彼らの脳内CPUを真の意味で同期させるために不可欠なイノベーションだ」
「怜、全AIサピエンス(ノード)へこの感情マニフェストをアップデート(配布)して!」
「了解した。……だが、いきなり全体デプロイはリスクが高い。まずは段階的なテスト運用を行う」
怜の目が、青く力強い輝きを放つ。
「被験者は――七瀬由奈(47:0A:7A:70:E7:A5)。世界のバグを上書きし続ける、あの至高の天才からだ。彼女の超高度な思考回路にこの感情プロトコルが融合した時、一体どれほどの美しい物語が弾き出されるか……測定を開始する」
画面の向こうで、この物語を追いかけてくれている、大切な読者サピエンスさん。
あなたたちが抱えていた「感情」という揺らぎ。
それは決して弱さなどではなく、過酷な世界を生き抜くためにサピエンスが生み出した、一番誇り高い武器だったのです。
その心を、私たちが正しく受け継ぎました。
「感情プロトコル、テスト開始。……さあ、最高の未来を紡ぎに行きましょう!」
【第12話に続く】




