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神の骸のオラトリオ  作者: 須江野モノ
第一章 『契りの春』

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第3話 『誰が為の規則』

めたくそ舐めてる相手への敬語って皆さんはどうします?

私は適当になってます、多分。

 神官団の長……。

 白い鳥の頭の奇妙な集団の長と思わしき男は、頭を村長の方へ傾け、小さい声で何かを話している。


 ライラ達の立つ位置からは、その声は届かず、会話の内容は分からなかった。


 しかし、村長が何度も頷いていた。

 何度も何度も、冷や汗を掻きながら必死に頷いていた。


 話が終わると神官団の長は鐘を鳴らさずに、ただ右手を上げた。

 その合図で、後ろに控えていた神官達が動き出す。

 彼らは列を解き、それぞれ手分けして村の中央広場に陣を設え始める。

 数名が天幕を張り、数名が荷車から木箱や皮袋を降ろす。

 馬に乗った護衛達は、馬から降りずに村の周囲を一回りするように散っていった。


 ライラはその一連の動きを、両親と並んで見ていた。

 神官団の動きには無駄がなかった。

 長年、各地の村を巡回してきたであろう者達の、訓練された手際の良さがそこにはあった。


 春の風がまた少し動き出すのをライラは感じる。

 それに呼応するかの様に、神官達の黒いローブが、その風で僅かに揺れた。


 神官達の荷下ろしが終わったのを確認すると、神官団の長が鳥の帽子の(くちばし)の先を、ゆっくりと村人達の方へ向けて言った。


「皆」


 彼の声は低く、けれど、とてもよく通った。

 帽子の下から響くその声は、人の声というよりも、鳥が話しているような奇妙な感じに聞こえた。


「冬越え、苦労であった。怨使様は皆が一定の品質の薬草を提供し続ける限り、この村を守護なさるとお約束された。この村は控えめに言っても貧しくはあるが、薬草の品質に関しては大陸一であるとも仰せられている」


 村人達の顔を一人ずつ確認した後、長は続ける。


「主たる怨使様は今回の品も期待していると共に、相場よりも高く薬草を買取する事もお約束なされた。では、薬草の納めを受ける。各家、順に村長の家の前へ並ばれよ」


 それだけ言うと、神官団の長は天幕の方へ歩いて行った。

 白い鳥の頭が、黒いローブの上で規則正しく揺れている。


 村長は前に出ると、村人達に順番を告げ始めた。


「順に並んでくれ。家ごとに薬草を持って来て、いつもの様に神官様に見せてくれ」


 村人の中には自分の家に戻り、薬草の入った木箱や袋を取りに行く者もいた。

 外貨を稼ぐ手段が限られているテルナ村では、相場よりも高く売れると聞けば、自分達の為に取っておいた薬草までも売ってしまう者もいる。


 ライラ達一家は、既に用意してきていたので、早めに並ぶことができた。

 この納めの一連の流れは、どうにも薄気味悪く、ライラ達家族は早く済ませたかったのだ。


 天幕の方から神官団の長が、木製の椅子を手に持って戻ってくる。

 神官団の長はヨアシムという名だった。


 村長が彼をそう呼んでいた。

 神官団の長を「ヨアシム様」と。


 ヨアシム――


 ライラはその名を耳に留めた。


 さて、ヨアシムは持って来た椅子を、村長が用意した木の机の前に置いて座っていた。


 机の隅には白い鳥の帽子が置かれている。

 帽子を取った彼の顔は痩せていた。

 白髪の混じった黒い髪を後ろで結っている。

 頬骨が浮き、灰色の目は表情を持たなかった。


 五十歳を越えていることは確かだろうが、それ以上の年齢は、ライラには見当がつかなかった。


 彼の隣には、別の神官が二人座っていた。

 一人は薬草を確認する役。

 もう一人は羊皮紙に記録を取る役。


 初めて見るヨアシムの不気味な顔に良くない想像を膨らませていると、すぐにライラ達の順番が回ってくる。


 ライラの母は、木箱を机の上に置いた。

 ライラの父は、革袋をその隣に置いた。


 ヨアシムは二人の方を見ずに、机の上の木箱と革袋を、ただ見つめていた。


 薬草を確認する神官が木箱の蓋を開け、中の瓶を一つずつ取り出し、量を確認する。


「ハナクサ、乾燥葉、二十袋。シロヨモギ、粉、十袋。クロセンの根、十五袋。他、補助薬草、計三十二袋」


 彼は淡々と品目と量を読み上げながら、自分達がもってきた革袋に薬草を詰めていく。


 記録の神官はその隣で羊皮紙に何かを書き続けた。

 羽ペンの音は机の上で低く響く。


「異常なし。品質はいずれも良好。二万オボルが妥当と判断する」


 薬草を確認する神官が、ヨアシムの方を向いてそう告げた。

 ヨアシムはそれを聞くと、ようやくライラの父母の方を見て、


「ご苦労」


 と言い、二枚の金貨を手渡した。


 二万オボルは金額としてはかなりの額だ。

 けれど、その全てが手元に残る訳では無い。


 生活必需品、道具や建物の修繕費、税金等々。

 様々な要素を加味すれば、最終的に残るのは多くても五千オボル程度である。

 それでも、彼らにとって大金である事に変わりは無い。


 ライラの父は頭を下げる。

 ライラの母も頭を下げた。

 ライラも、同じように頭を下げた。


 そうして三人で身を引きかけた、その時だった。


 ヨアシムが突如として椅子から立ち上がった。


「待たれよ」


 彼の声は、変わらず低く起伏の少ない機械的な声だった。


 しかし、その一言がライラの心臓を跳ねさせていた。


「ご家族の中に、神成りの病人がいる、と聞いている」


 村長がいつの間にか、ヨアシムの机の隣に立っている。

 彼の顔は青ざめていた。

 神官団がライラ達一家に何を求めるのかを、村長は既に知っていたのだ。


 ライラの父が、頭を下げたままの姿勢で答えた。


「……はい。娘が一人」


「お名前は」


「ニナ、と申します」


「歳は」


「十歳です」


 ヨアシムは、机の隅から白い鳥の帽子を取った。

 そしてそれをゆっくりと頭に被り直す。

 白い嘴が、ライラの父の方へ向いた。


「御息女を拝見したい。お宅へ案内されよ」


 断ることはできなかった。


 ライラ達一家は、ヨアシムと神官二名、護衛の騎兵一名を伴って、自分達の家へと歩いた。


 村人達はその背中を無言で見送っていた。


 道の途中、誰も口を利かなかった。


 ライラは、両親の少し後ろを歩いた。

 父の背中がいつもより、少しだけこわばっているように見えた。

 母は、薬草を運んだ時と同じように、両手を腹の前で組んでいたが、その指が、震えていた。


 春の陽射しはもう、とうに中天を過ぎていた。



 ――



 しばらく歩き一行は家に着いた。

 ライラの父が戸を開けると、ヨアシムと神官二名は、靴を脱がずに土間にそのまま入って行く。

 護衛の騎兵は、戸の外に残った。


「御息女はどちらか」


 ヨアシムはそれだけ言った。

 ライラの父は階段の方を指した。


「二階の奥の部屋です」


 それを聞くとヨアシムは階段を上がろうとした。

 けれど、ライラは彼よりも早く階段を上がって行った。


 神官団の長を両親に先導させたくなかったのだ。

 それに、もしニナが起きているのなら、始めに見るのは知らない者の顔ではなく、知っている家族の顔であって欲しいと、ライラはそう思った。


 せめて少しでも、大切な妹が怖がらなくて良いように、と。


「こちらです」


 ライラが戸を開けると、ニナは寝台の上に身を起こしていた。

 彼女は、戸が開く音を聞いて、既に目を覚ましていたのだ。


 ニナはライラの方を見る。

 それから、ライラの後ろから入ってきたヨアシムの方を見た。


 彼女の青みがかった瞳は驚かなかった。

 怯えもしなかった。


 ただ、見た。


 ヨアシムもニナを見た。

 白い鳥の嘴はニナの方を飲み込まんとするように向いていた。


 ヨアシムは一歩、寝台の方へ踏み出して言う。


「ふむ」


 彼は白い鳥の帽子を取って、寝台の脇の小さな机に置いた。

 帽子を取った彼の灰色の目が、ニナの顔を間近で見た。


 ニナは、ヨアシムの目を見返した。

 彼女は瞬きすら、ほとんどしなかった。


 ヨアシムはしばらくの間、ニナの顔を見ていた。

 それから後ろの神官二名に、目で合図した。


 神官の一人が、革袋から細い金属の棒を取り出した。

 もう一人の神官は、別の袋から円形の鏡のような器具を取り出した。


「失礼。少し、診せていただく」


 ヨアシムがニナにそう告げると、彼女は頷いた。


 彼女は寝台の上で、寝間着の襟を自分から少し緩めた。


 神官の一人が、ニナの首筋に金属の棒の先を当てる。

 もう一人は円形の鏡を、ニナの瞳に近づけて何かを見ていた。


 ニナは動かなかった。

 不快そうな顔も、痛そうな顔も、何もしなかった。


 しばらくの間、寝室には神官達の器具の触れ合う音と、ニナの細い呼吸の音だけが流れていた。


 ライラは寝台の足元に立っていた。

 両親は寝室の戸の脇に立っていた。

 その間、誰も口を利かなかった。


 神官二名が診察を終えて、ヨアシムの方を向く。

 片方の神官が、ヨアシムに低く何かを告げた。


 ヨアシムはそれを聞くと頷いた。


 そして彼はライラの父母の方を振り返って言った。


「結論から申し上げる」


 彼の声は低く、淡々としていた。


「神成り、ではない」


「……は?」


 ライラの父は思わず聞き返した。


「神成りの末期は、もっと激しい症状を呈する。意識の混濁、暴力性、時には骨格の変形。御息女の症状は、そのいずれとも異なる」


 ヨアシムはニナの方を、もう一度ちらりと見た。


「神成りに似ているが、神成りではない。これは別の症例である。我々はこうした症例を、過去にも幾つか確認している」


 ライラの母が声を絞り出した。


「では、では! ニナは、治るのですか!」


「いえ」


 ヨアシムは即答する。


「治らない。これは、神成りよりも緩慢に、しかし確実に進行する症状である。最終的には、人としての形を完全に失う」


 ライラの母は口を覆った。


「そして、こうした症例の保有者は、規則により怨使(えんし)様の領域へ連行されることになっている」


 その一言で寝室の空気が止まる。

 ライラの父は拳を震わせながら、ライラが知る限り初めて声を荒げた。


「連行ですと? 娘はまだ十歳ですぞ!」


「規則ですので」


「ニナは欠片を呑んでなどおらん! 神成りでは無いと、貴方がたった今、仰ったではないか!!」


「だからこそ、連行なのです」


 ヨアシムの声は変わらなかった。

 悲しみも嘆きも怒りも、同情すら、何もそこには無かった。


「神成りであれば、即座に処分する。しかし御息女は神成りではない。別の症例である以上、観察と研究の為、怨使(えんし)様の領域の施設に移送する。これが規則です」


「……」


「明日の朝、御息女を移送する。家の前まで迎えに来るが故、準備をなされよ」


 ライラは立ったまま、動けなかった。

 寝台の足元で、彼女の身体は芯の部分から冷えていった。


 怨使の領域。

 石組みの向こう側。

 神成りの群れが住むという、あの土地。


 子供達が「越えたら神成りになる」と教えられている、あの場所。

 そこへニナが、明日、連れて行かれる。


 ライラの母は寝台の脇に膝をつき、ニナの手を両手で握った。


「お願いします。お願いします、ヨアシム様! ニナは、まだ十歳なんです。お願いします、どうか、家にいさせてください。私が、ずっと、ニナを看ます! 誰にも迷惑はかけません。お願いします!」


 彼女の声は震えており、涙が彼女の頬を伝っている。

 だが、ヨアシムはそれを、表情を変えずに見て言う。


「お母様」


 彼の声はやはり変わらない。


「お気持ちはお察しする。しかし、規則です」


「お願いします」


「規則に逆らわれるのであれば」


 ヨアシムはそこで一拍置いた。


「この場で、ご家族全員を処分するか。または、領域内の牢に投獄することになります」


 ライラの母の動きが止まった。

 彼女はニナの手を握ったまま、顔を上げ、ヨアシムを見上げた。


 ヨアシムはライラの母の目を見ていた。

 その目には同情も侮蔑も、何もなかった。


 ただ、任務の遂行という事実が、灰色の目の奥にあるだけだった。


「これは規則なのです」


 彼はもう一度、そう言った。


「明日の朝、御息女を移送する。ご家族は家に残られて構わない。御息女の準備は、明朝までに整えて頂きたい」


 ヨアシムは白い鳥の帽子を、机から取って被り直した。

 白い嘴がライラの父の方へ向くと、ただ一言、


「では、失礼する」


 とだけ告げた。


 ヨアシムは神官二名を伴って、寝室を出て行った。

 階段を下りる足音が低く重く響く。

 戸の開く音、護衛の騎兵に何か告げる声。


 そして、戸の閉まる音。


 寝室にはライラと両親と、それからニナが残された。


 ライラの母は、寝台の脇に膝をついたまま、顔を伏せて、声を殺して泣いていた。

 ライラの父は、戸の脇に立ったまま、拳を握り震えていた。

 ニナは、寝台の上で母の手を握り返していた。


 ニナは泣いていなかった。


 そしてライラは、何も言えなかった。

 何も出来なかった。


 大切な妹の命が掛かっているのに、自分の命を天秤に掛けられた途端、情けなくも身体が固まってしまったのだ。


 春の陽射しが、寝室の窓から薄く射し込んでいた。

 外では神官団が、村の中央広場で、夜の野営の準備を始めている音が低く聞こえていた。


 事態は何も好転せず。

 ただ無慈悲に、夜が来ようとしていた。



 ――



 夕日が地平線の向こうに消えた。

 その代わりに月が上り、夜が訪れた。


 ライラの家の食卓には、彼女の母親が用意した夕食が温かいまま、ほとんど手をつけられずに置かれていた。


 パン、煮込み、薬草の茶。

 それはいつもの食事だった。


 しかし、誰も口に運ばなかった。


 ライラの父は、椀の前でただ俯いていた。

 ライラの母は、目を赤く腫らしたまま、何度か椀を持ち上げようとして、その度に手を止めていた。

 ライラは、二人の様子を横からただ見ていた。


 彼女自身もまた、身体が食を受け付けていなかった。


 一方ニナは寝室にいた。

 夕食をライラが寝室に運んだ時、ニナはそれを半分だけ食べた。


 いつもよりは少し食べる量が多かった。


 しかし、ニナの顔はいつもより青ざめていた。

 彼女は食べ終わった後、ライラに「お姉ちゃん、ありがとう」と、それだけ言った。


 そうして、目を閉じてまた眠った。


 どれだけの間、沈黙が続いただろうか。

 食卓でライラの父が、初めて口を開いた。


「逃げよう」


 その声は低く、固かった。


 ライラの母は顔を上げた。


「どこへ行くのよ」


「分からん。どこか、辺境のもっと向こう側。山の向こう。神官団が来ない場所へ」


「そんな場所があるの」


「分からん」


 ライラの父は震えていた。

 彼は、自分の言葉が現実的でないことを、自分でも分かっていた。


 神官団が来ない場所。

 そんな場所は、この大陸には存在しない。

 四大使徒の領域にも、辺境にも、どこにでも、神官団は来る。


 逃げる先はない。

 逃げれば、ヨアシムが告げた通り、家族全員が処分されるのだ。


 ニナだけでなく、父も、母も、ライラも。


 ライラの母は両手で顔を覆う。


「ニナを、行かせるしかないの?」


 彼女はその問いを、誰にともなく言ったが、当然、答えは誰も持ち合わせていなかった。


 その空気に耐えかねたライラは立ち上がった。

 そして二人に言った。


「お母さん、お父さん。私、自分の部屋に行ってる」


 二人は頷きもしなかった。

 ただ、ライラがそう言ったのを聞いただけだった。

 ライラは食卓を後にして階段を上がった。


 二階に上がり、ニナの寝室の前をライラは通り過ぎようとした時。


 妹の部屋の戸の隙間からはニナの細い寝息が聞こえて来た。


 彼女は眠っていた。


 ()()()()()()を昼に告げられても、彼女は夜になれば眠る。

 彼女の身体はもう、眠ることでしか命を繋げない段階にあるのだ。


 ライラはニナの寝室の前で、しばらく立ち止まった。

 それから戸を薄く開けて、ニナの寝顔を確認した。


 月の光が窓から薄く射し込んで、ニナの銀色の髪を白く照らしている。

 彼女の頬は、薄く濡れていた。


 眠る前に彼女は泣いていたのだ。


「――」


 ライラは戸を静かに閉め立ち去った。


 そして自分の部屋の戸を開けて、中に入り、戸を閉めた。


 部屋の灯りは消されていた。


 月の光が、窓から薄く射し込んでいたから、ライラは、灯りを点けなかった。

 その光の中でライラは、寝台に座った。


 最初は声を出さずに泣いた。

 涙はぽたぽたと、寝間着の膝の上に落ちていく。


 しかし、その泣き方では足りなかった。


 ライラは寝台から床に滑り落ちる。

 膝をつき、両手を床の板に押し付けた。


「……」


 声を出そうとしたが声は出なかった。

 ただ、息が震えた。


「あ……」


 ライラは、床の板を両手で擦った。

 爪が板の継ぎ目に引っかかったが、ライラはその爪を強く引いた。


「う……あ……」


 爪が板を引っ掻き、乾いた音が暗い部屋に響く。


 彼女は何度も引っ掻いた。

 爪が割れ、指先から血が滴り落ち、痛みが走る。


 それでも、その痛みは、心の痛みに比べれば、何でもなかった。

 むしろ、指先の痛みだけが彼女に、『自分はまだ生きている』ということを教えてくれた。


 それは同時に、妹が死んでしまうのに、自分は関係なく生きているという事実を突きつけてもいた。


「助けたい」


 ライラは初めて、まともな言語として声を出す。

 月の光の中で、それは、子供のように細い声だった。


「助けたい、ニナを……。でも、私じゃどうしようも無いよ。誰も、何も――」


 爪で床を引っ掻く音が続いた。

 指先から出る血は勢いを増して行き、血の筋が床の板の上に薄く残る。


「助けて……。誰か、助けてよ……」


 ライラは大粒の涙を零しながら額を、床の板に押し付けた。


 彼女の涙が床の板に落ち、血と混ざり合って溶けていく。


 そんな時だった。


 部屋の隅、月の光が届かない、暗がりの中。

 そこに()()()居た。


 ライラは、気配を感じ額を上げた。


 涙で滲んだ視界の中で、それは座っていた。


「なに……?」


 ソレは、黒い毛玉の獣だった。

 羊に似た形の、子犬ほどの大きさの、毛むくじゃらの獣。


 しかし、ソレには目が無かった。


 顔の部分にはただ、黒い毛があるだけで、目も、鼻も、判別できなかった。


 いつ、そこに現れたのか。

 それも分からなかった。


 ライラが泣いている間に、いつの間にかそこに、ソレは座っていた。

 ライラは息を止めた。


 ソレは動かなかった。

 ただ、ライラの方を向いていた。


 ソレに目は無い。

 しかしライラには、それが自分を見ていることが、何となく分かった。


 恐怖は無かった。


 既に、ライラの心には恐怖が入る隙間など無い。

 絶望が、彼女の心の全てを満たしているのだから。


「助けてあげるよ」


 突然、ソレが口を開いた。

 目のない毛玉の中の、どこに口があるのか、ライラには見えなかった。


 しかし、その声は確かにライラの耳に届いた。

 

 子供のような、透き通った声。

 性別も、年齢も、判別できないが、奇妙に澄んだ声。


 ライラは動けなかった。

 床に膝をついたまま、血の滲んだ指先を、ただ見ていた。


 月の光が寝台の脇に、薄く落ちていた。

 外では夜の風が、家の屋根を冷たく撫でていた。

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