第2話 『鐘の前』
鐘の音が、北の空から低く重く響いていた。
ライラは薬草園の中央で、籠を腕に抱えたまま、しばらくの間その音を聞いていた。
鐘の間隔は、馬の歩みの速さで打たれている。
一つ。
また一つ。
また一つと。
彼女にはその鐘の音を聞いただけで、神官団があとどれくらいで村に着くか、おおよそ察しがついた。
一時間、または長くて一時間半。
風が少しずつ動き出している。
春の風だが、まだ冷たい。
彼女は籠を抱え直し、薬草園を出た。
道を下って行くと、村の家々の前に人影が増え始めている。
井戸端の老婆は、杖を立てたまま北の空を見上げていた。
数軒先の家の戸口からは、近所の女性が布巾で手を拭きながら出てくる。
子供達は地面に描いていた絵をそのままにして、北の方角へ走り出している。
「神官様だ! 神官様が来た!」
子供達の声が村の細い道に響く。
ライラはその声を背中で聞きながら、自分の家へと急いだ。
家に戻るまでの数分の間に、村は、鐘の音に気づいた人々の動きで少しずつざわめき始めていた。
――
家に着き戸を開けると、中はすでに動いていた。
ライラの母は台所と土間を行き来しながら、薬棚から瓶や袋を取り出している。
彼女の手の動きはいつもより少し速く、落ち着きがなかった。
「お母さん。神官様達がもうすぐ来るよ」
「分かってる」
ライラの母は振り返らずに答えた。
「お薬の納めの分、いつもより多めに用意しないとね。冬を越したから、多分彼らの分も追加で要ると思うわ」
ライラは籠を土間の隅に置き、上着を脱いで彼女の隣に立った。
母が取り出した瓶をライラが受け取り、棚から取り出した木箱に並べていく。
ハナクサの乾燥葉。
シロヨモギの粉。
クロセンの根。
他にも何種類もの薬草が、整理された瓶の中に納まっている。
二人はしばらく無言で手を動かした。
しかしある時、ライラの母がある瓶の前で手を止めた。
彼女は瓶を取らずにそれを見つめている。
「ライラ」
「なに?」
「神官様達がニナを診たいって言ったら、どうしようか」
母の声は低く平らだった。
怖がっているのでも、悲しがっているのでもない。
ただ、答えの分からない問いを、口にしているだけの声だった。
ライラは、瓶を木箱に納める手を止めて言う。
「……隠せないよ」
「そうね、きっと無理だわ」
「隠したら、もっと悪いことになると思う。きっと罪人だ何だって言われて、私達は街まで連行されるか、その場で死罪になると思う」
「そうね」
ライラの母は瓶を取ってそれを木箱に納めた。
彼女は振り返らずに棚の前に立っている。
「そうよね。隠せないわよね」
彼女の声には、安堵とも諦めともつかない響きがあった。
きっと彼女は自分の答えを、肯定してもらいたかったのだと、ライラは気づいた。
彼女は自分一人で答えを出せなかった。
出ていたが、それを認めたくなかったのだ。
自分の愛娘を神官に引き渡し、化物になる前に殺されてしまう結末など、到底受け入れられる訳が無い。
だからライラに、同じ答えを言ってもらうことで、自分の判断が間違っていないことを確認したかったのだ。
ライラはそんな母の背中をしばらく見ていた。
彼女の母は背中を向けたまま、もう一つの木箱を取って瓶を納めた。
「でも、お母さん」
「うん」
「私がニナのそばにいるから。あの子は化物になんかにはならないから。私がきっと、助けて見せるから」
「……ありがとう」
ライラの母はそれだけ言うとまた手を動かし始めた。
外からは馬の蹄の音と、何人もの足音がまだ遠く、しかし以前より大きく聞こえ始めていた。
不意に戸の開く音がすると、ライラの父が土間に入って来る。
彼は薬草園から戻ってきたので、ズボンの裾に土がついていた。
長靴を脱ぎ、桶を土間の隅に置くと、
「来たな」
と、ただそう言った。
「ええ。お薬の納めの分、いつもより多めにしましょう」
「ああ」
彼女の父は母の隣に立ち、薬棚の前で瓶や袋、木箱を確認し始める。
ライラは二人の作業を、少し離れたところで手を動かしながら見ていた。
父と母が並んで棚の前に立っている。
二人の手が瓶を取り、木箱に納め、別の袋を取り、また納める。
手の動きは長年の習慣で、互いに干渉しない。
ライラの父が瓶を取ると、ライラの母は別の袋を取る。
彼が木箱に納めると、彼女はその隣に納める。
二人は無言だった。
けれど、しばらくして父が母に何かを小声で言うと、彼女の母は頷いた。
その短い遣り取りの内容は、ライラには聞こえなかった。
父が振り返って、ライラを見た。
「ライラ」
「なに、お父さん」
「お前は、ニナのそばにいてやれ」
「分かったわ」
父はそれだけ言い、また薬棚の方に向き直って、母と一緒に薬の確認を続けた。
ライラは土間を抜けて階段を上がり、ニナの寝室の方へ向かった。
階段を上る途中で、もう一度振り返る。
父と母の背中が、薬棚の前で並んで動いていた。
ニナの寝室の戸を開けると、彼女はまた寝ていた。
しかし、その額には薄く汗が浮かんでいた。
今朝、ライラが額に手を当てた時には熱はなかったのにだ。
ライラは寝台の脇に膝をつき、棚から布を取る。
そして傍の桶に溜めた水につけて絞ると、ニナの額の汗を拭いた。
ニナの肌は、汗を浮かべていてもライラの手より少し冷たい。
水で濡れた布の冷たさに気が付いたのか、ニナが目を覚ます。
「お姉ちゃん」
「うん、どうしたのニナ」
「鐘の音、聞こえる?」
ニナの声は寝起きでまだぼんやりとしていた。
「うん。聞こえるよ」
「誰が来るの?」
「神官様達。冬を越したから、薬草を受け取りに来たの」
姉の言葉を聞き、ニナはしばらくの間、天井を見ていた。
彼女の青みがかった瞳は、何もない天井の板を、ただ見ていた。
「それだけじゃないよね」
ニナの声は、寝起きの、ぼんやりとした子供の声のままだった。
でも、その鋭さは十歳の子供のものではなかった。
ライラは答えに詰まった。
「私のこと、診に来るんでしょ」
ニナは天井を見たまま言った。
「……うん」
「気にしないで。お姉ちゃんもお母さんもお父さんも、誰も悪くないよ。私はみんなの事が大好きだから」
ニナはそう言うと、辛い筈なのにライラに笑いかける。
ライラはその言葉に何も返答をする事が出来なかった。
その言葉を境に、部屋にはしばしの間、沈黙が訪れる。
だが、再度ニナが口を開く。
「ねえお姉ちゃん。私、また夢を見たの」
「どんな夢?」
「神官様達が来る夢」
ニナは天井を見たまま淡々と言った。
「真っ黒な服を着て、白い鳥の形の帽子を被った人達。沢山いた。十五人くらい。馬に乗った人も、何人かいた。みんな、私の方を見てた」
ライラは布でニナを拭く手を止めた。
彼女は自分の身体が少しずつ冷たくなっていくのを感じる。
ニナは神官団の正装を見たことがない筈なのだ。
テルナ村にこれから来る神官団は、ライラがニナと共に薬草園で遊んでいた頃には来ていなかった。
来ていたのは精々、行商人か騎士団くらいのものだ。
神官団が来たのはニナが寝室で寝込むようになってからである。
それなのに、ニナは神官団の姿を夢の中で見ていた。
「それで、その人達は何かしたの?」
ライラは声をできるだけ平静に保ちながら聞いた。
「分かんない。夢の中で私は何かを抱きしめてた。とても、大切なものだった気がする。でも、何を抱きしめてたかは思い出せないの」
ニナは寝台の上で、自分の腕を軽く胸の前で組んだ。
その仕草は、何かを抱きしめている時の形だった。
「そっか」
ライラはニナの手を握る。
ニナの手は細く、白く、冷たかった。
「大丈夫だよ。私が、いるから」
ニナはゆっくりとライラの方を見る。
彼女の青みがかった瞳が、ライラの顔をじっと見つめた。
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
そう言ってニナは微笑んだ。
その微笑みは子供のものだった。
顔は変わっても、微笑みだけはまだニナのものだった。
安心しながらライラがニナを見ていると、外で馬の蹄の音が鳴った。
神官達はすぐ近くまで来ているようだ。
ライラはニナの手をもう一度握り直して言う。
「ニナ。私、下に行くね」
「うん」
「神官様達が、ここに来るかもしれないけど」
「うん」
「怖がらなくていいから」
ニナは頷いた。
しかし、彼女の青みがかった瞳には、怖がっている色はもともと無かった。
ただ彼女は知っていたのだ。
神官団が自分を診に来ることを。
そして、それが何を意味するかを。
ライラにはそれが奇妙に思えた。
十歳の子供が何故、自分の身に起きている不自然な事を、これほど落ち着いて受け入れられているのだろうか。
けれど、ライラはそれについて深く言及はしなかった。
ただニナの手を放し、寝台の脇から立ち上がって、寝室の戸を静かに閉めて出て行くだけだ。
階下に降りると、ライラの父と母はもう玄関の前で待っていた。
母は薬草の入った木箱を、両手いっぱいに抱えている。
父は革袋を一つ肩にかけている。
「ライラ」
彼女の母が声をかけた。
「行きましょう」
ライラは頷き、三人は共に家を出た。
――
村の中央には、もう村人達が集まり始めていた。
村長の家を中心にそれぞれの家族が、数歩ずつ離れて立っている。
子供達は親に手を引かれている。
今朝会った老婆も杖をつきながら、隣に立つ女性の腕を借りて出てきていた。
外に見えるのは全部で五十人ほどだろうか。
テルナ村の住民のほとんどが、この場に集まっていた。
誰も大きな声では話していなかった。
囁き声と、子供の小さな声だけが、村の中央の広場に低く流れているくらいだ。
ライラは両親と並んで村人達の中に混ざる。
鐘の音が、もうすぐそこまで来ている。
馬の蹄の音、何人もの足音、人の声。
それらが村の北の街道から聞こえる。
しばらく待っていると、道の向こうから黒い集団が現れた。
黒いローブを着た神官達が、葬式の様に列をなして、村の入り口へ向かって歩いてくる。
彼らの頭には、白い鳥の形をした帽子が載っていた。
帽子の前面は、長い嘴のように前へ突き出している。
遠目にはそれは、人の顔ではなく白い鳥の頭が、黒い身体の上に乗っているように見えた。
神官の数は、十五名前後。
その後ろから馬に乗った護衛が、五騎ほど続いている。
護衛の男達は上等な金属製の鎧を着て、剣と槍を帯びていた。
彼らの馬の鞍には、荷物が括り付けられている。
先頭の神官が手に持った鐘をもう一度鳴らした。
低く、重い、金属の音が周囲に響き渡る。
この光景はニナの夢の通りだった。
ライラは両親の隣に立ったまま、その光景を見てそう思った。
黒いローブと、白い鳥の帽子。
馬に乗った男達。
みんな、十五人くらい。
彼女の心臓が心なしか鼓動を早める。
神官団は村の入り口で止まると、先頭の神官が村長の方へ、ゆっくりと歩み寄っていく。
そして白い鳥の頭が村長の前で傾く。
不穏な光景に見えるが、どうやらただ挨拶を交わしたようだ。
それから神官団の長と、村長は何かを話し始めていた。
春の風が村の中央を横に流れていく。
遠くでは最後の鐘の音が一つ鳴った。
そして止まった。




